帰りは余計に遠い気がした。砂漠の砂は細やかで、走るのには不向きであった。疲労
は加速度的に増し、全身汗まみれで不快感が募った。いっそ河に入ってすっきりしたい
と島原は欲した。
 河……川、皮、かわ、そうか、河か!島原は突如ひらめいた。村はこの河の下流であ
る。泳いで下れば良いではないか。 
 思いつくやいなや、島原は河に飛び込んでいた。大河はゆったりと流れていて、見た目
には殆ど動いていないかのようだった。その流れの中を、島原はクロールで進み始めた。
だが、愚かなるは島原である。往路で走った分の疲れと、濡れた衣服が身体にからみつ
くおかげで、意志に反して思うように泳げないのが実態だった。あっという間に息があがり、
クロールのつもりがただ手足をバタつかせているだけになってしまった。
 なんてこった……もう身体が動かない……このままでは……陽が……陽が沈んでしま
う……次第に意識が遠くなる。傾きつつある太陽を目の端に捉えたのが最後だった。ふ
っと全身の力が抜けると、島原は大河を漂う小さな漂流物と化していた。どだい怠慢な大
学生にトライアスロンは無理だった。
 河の流れは変化しない。悠久の如くゆったりと過ぎゆくのみ……

 刻(とき)が流れた。島原が意識を取り戻した時、陽は既に地平線の向こうへ没しようと
していた。
 はたと気がつき、島原は自分が川岸に打ち上げられていると解った。全身から水を滴
らせながら砂漠へと上がり、島原はあたりを見回した。ありきたりで何等特徴のない風景
である。現在位置は見当がつかなかった。
「どこだ、ここは……ええい、とにかく下流へ行けばいいんだ」
島原は水を振りまきながら再び走り出した。疲れで思うように足が動かなかったが、よろ
めきながらもとにかく走った。
 もう少し……もう少しで村だ!島原はそう信じた。もうすぐ村の入り口が見えて、自分の
持ってきた薬草で少女は助かる。そうでなくてはならない。一人の少女すら救えなくて、何
の救世主か。
 太陽の下端が砂漠の彼方に接した。こうなると日没は加速する。島原は最後の気力を
振り絞って足を動かした。かろうじて自分の往路の足跡を見つけ、それを逆進する。
 間に合え、と島原は本気で祈った。無神論者の島原が初めて心から何かに祈った。神
様の種類なんてどうでもよかった。祈りを捧げるのに、神を選ぶ必要がどこにあるという
のだろう。
 そしてもはや精も根も尽き果てた時、島原は村の入り口へ辿り着いた。そのままマンホ
ールもどきの穴を一気に滑り降りて、河底の村へと向かう。
 村のアーチのところであゆさんが待っていた。憂いを帯びた顔が、島原の姿を確認する
とにわかに晴れた。先んじて少女の家へと駆け出す。
「帰ってきました!」
そう叫んで家の中へ入ってゆくあゆさんに、島原もおぼつかない足取りで続いた。
 良かった、これで少女は……島原は心の底から安堵した。だが、ようやく戻ってきた家
の中は変に静かだった。
「……?」
客間に行くと、沈痛な面もちの人々が呆然と立ち尽くしていた。皆一様に虚ろな瞳で身じ
ろぎもしない。
「まさか……そんな……」
島原の否定的な言葉も、部屋を包む重い空気に呑み込まれた。アロハシャツ中年男は
無言で首を横に振った。
 島原は崩れるように床に跪いた。がっくりとうなだれてしまう。全てが徒労に終わった。
少女は助からなかったのだ……それが現実だった。
 やがて島原の肩が震え出すのを、あゆさんは見てしまった。両手をついた板間に、ぽ
つりぽつりと嗚咽の雫が落ちる。それはあまりに悲しい後ろ姿だった。
「……俺は……救世主なんかじゃない」
「……!」
その絶望に満ちた島原の言葉を聞いた瞬間、あゆさんの瞳から涙が溢れた。とっさに
島原の背中を優しく包むように抱きしめると、彼女自身も顔を押しつけて泣いていた。島
原は背中から伝わるその温もりに、余計自分自身が情けなく思えて涙を流した。
 翌朝、悲哀の色を残したまま一行は河の民の村を後にした。

 島原は知らない。少女が実は仮死状態であり、二日後元気に目覚めたのを……。そ
もそも、アロハシャツ中年男は薬草を飲ませなければ少女が「死ぬ」なんて一言も言っ
ていなかった。
 これにて一件落着。あ〜どんとはれ。

                                                 (了)


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