風吹きて 舞い散る淡き 野辺のひとひら
夏を残して 君ひとりゆく……
(上)
朝靄はまだ夏の一日を予感させず。緩やかな傾斜の山林に彼は一人あった。
どこまでも、どこまでも白く淡く霞む視界は夢と現の境界を曖昧とし、気が付くと
彼は湖面を臨むほとりにいた。
朝の散歩にしては少し歩き過ぎたと彼は思った。彼が泊まるホテルからこの
湖まではだいぶ距離があるはずだった。ぼんやりと考えるともなしに来てみれ
ば、湖畔はひっそりと煙って夜の眠りから覚めようとしていた。やがて遠く山並
みの向こうがゆっくりと輝きだすにつれ、生き物達の息吹がそこかしこから、ゆ
ったりと今日の始まりを告げだした。
湖面を這う朝靄は冷えた空気を纏い、彼に新鮮な空気を注ぎ込んだ。深く、
静かに呼吸して彼は止めていた歩みを再開した。すると、前方にぼんやりと白
い影が浮かんだ。それはとても幻想的なゆらめきをもって彼の視界に現れた。
驚きと共に見据える彼のまなざしの中で、影は重さを持たないかのようにふわ
りと舞い、振り返った。それはまさしく、天使の降臨に見えた。
「……!」
息を飲んだのは、天使 少女のほうであった。
「済みません。驚かせて……」
咄嗟に出た彼の言葉に、天使と見えたその少女が少し唇の端を上げて笑み
を作り、
「いえ……」
とても密やかな囁きを発した。その澄んだ響きが彼の耳を優しく撫ぜた。
「お散歩ですか?」
「ええ……」
彼の問いに少女は短く答えた。年は二十歳前後だろうか。見れば白いブラウ
スの少女は確かに、この霞の中でどこまでも夢幻の彩りを放っていた。
「地元の方……ではないですよね?」
今度は少女が尋ねた。
「はい。仕事で来ていまして」
「まあ……何のお仕事ですか?」
「少々文筆を……」
「文筆……作家先生でいらっしゃいますの?」
「先生と呼ばれるほど数は書いていませんが、そんなところです。あなたは、
この土地の人ですか?」
彼がそう訊くと、少女は少し目を伏せて、
「いえ……あすこに病院が見えますでしょう?」
そう言って示したのは、湖畔から続く高原にあるサナトリウムだった。
「あそこに、療養に来ているのです」
「……!」
彼は驚かざるをえなかった。なるほど少女の現実感の稀薄さはその病気ゆ
えであったのかと、彼は憐憫にも似た悲愴感と共に認識した。
「今日は調子が良いので、ついこんなところまで足を延ばしてしまったのです
けど……」
だが答えつつも、少女は少し咳き込むそぶりを見せた。後ろで大きく幾重に
か編んだ長い髪が、咳きをする度ゆらりと揺れた。
「大丈夫ですか?」
「ええ……それほどひどくはないので……」
ほどなくして発作がおさまると、少女は細い手で胸のあたりをじっと押さえて
呼吸を整えた。
「もう、大丈夫です……」
「ここに来て長いんですか?」
「まだ三ヶ月といったところです」
「そうですか……お大事にして下さい」
彼はそれ以上少女への労りの言葉を見出せなかった。
少女は名を静(しず)といった。