日に日に戦争の色が濃くなってゆく昭和十五年。文壇にも検閲の手が回り、
反戦主義を唱えていた作家達はのきなみ逮捕され、転向していっ た。そんな
中央の空気を嫌い、彼は東北のとある地に避暑と執筆を兼ねて滞在していた。
作家仲間の何人かからは逃避だと言われたが、ある意味それは的を射てい
たのかもしれない。だが、不必要な緊張を強いる東京の空気の中では伸びや
かな新作など書けるはずもなく、片田舎で悠長な時間を過ごすのは精神的に
は非常に良好と言えた。

 翌日の昼過ぎ。彼はあてもなく高原をぶらついていた。頭の中で新作のイメ
ージがちらちらとよぎったが、形となることはなくどこか意識を擦り抜けてしまう
感覚があった。その頼りない影を追いかけるうち、いつしか彼はサナトリウム
の裏手に出てしまっていた。
「確かここは……」
静という少女が療養している病院のはず、と彼は思った。傾斜を削って建てら
れたその病院は南向きに面しており、どこか開けた印象があった。その中庭
では患者達がめいめい横になり、新鮮な空気をその病魔が巣くった肺に取り
込んでいた。
 病院の玄関脇の花壇に水をやる看護婦が目につき、彼は何となく近寄った。
名も知らぬ紫の小さな花が水を浴びてつややかに輝いていた。それは、青白
く生気を失いつつある患者達とは皮肉なまでに対称的に見えた。
「お見舞いですか?見かけない方のようですけど」
看護婦にそう声をかけられ、返すべき答えを彼が探していると、
「あら、こんにちは……」
そろそろと玄関から静が姿を見せた。その顔色は、強い陽射しの中でもいや
に白く映った。
「静さんの知り合いの方でしたか」
看護婦は一人納得し、その場を去っていった。
「今日は取材ですの?」
「いえ、高原を歩いていたらたまたまここに出てしまったのです」
答えながらも、静が歩きだそうとしたので彼は慌てて近付いた。その足取りは
どこか頼りなく、支えてやるべきかどうか迷うほどであった。昨日無理をしすぎ
たのではないかと、彼はちらと思った。
 触れそうなほど肩を寄せ合って、二人は中庭の端まで来ると腰を下ろした。
地味な部屋着に手入れをしていない髪の毛、着物から伸びた折れそうなほど
細く白い手足……病弱に見える要素が彼女を包みすぎていて、彼はどうにも
いたたまれない気分になった。
「私のところへ見舞いに来る人なんて殆どいないんです。だから先生の姿が
見えた時、何だかとても嬉しくなってしまって……ご迷惑ではありませんでし
たか?」
「いいえ、一向に……それより先生というのはよして下さい。そんな身分では
ありませんので」
「そうですか。でも、私から見れば作家の方はやはり先生ですわ」
「ははは……そんなに偉いものでもないんですよ、小説家って。特に私のよう
な三文作家は」
「あら、そんな……」
静はひっそりと笑った。もともと囁くような声なので、笑い声もしごく穏やかであ
った。その身体のことを考えれば無理もないのであろうが。
「近くに知り合いはいないのですか?」
「ええ、たまに父母が見舞いに来る程度で」
「それは、さぞ心細いでしょう」
「でも、ここの方は皆親切な人達なので、最初は少し寂しかったですけれども、
今はもう自分の家みたいな気持ちです」
「そりゃあ良かった」
あまり長話をさせてはいけないのではないかと、彼はふと気になった。この病
気の場合とにかく安静にしていた方が良いのでは、と無い知識をまさぐってみ
る。
「退院の予定はあるのですか?」
彼は静の病気の度合いを知りたくて、訊いてみた。
「いえ、今のところは。でも長くても一年だろうと院長先生が……」
答える声とは裏腹に、静の表情は晴れなかった。
「早く退院できるといいですね」
「ありがとうございます」
それが表面的な受け答えでしかなくとも、今の彼にはそれ以上何も言えなかっ
たし、言える立場でもなかった。彼女の病状がどれほどのものであるか、それ
は彼の推測の域を出るものではない。それでもあまり思わしくないのではない
かと、漠然とだが感じられた。

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