吹く風は熱気を含みつつもどこか涼しげであった。確かにここは空気が良い
ようだ。彼も思わず昼寝の衝動を覚えた。
「先生は今どのような作品を書いてらっしゃるのですか?」
その突然の静の質問に彼は戸惑った。全くのところ、ここへ来てから文章とい
うものを一行も書いていないことに改めて気付く。
「いえ、まだ構想の段階で……」
そう答えるしかなかった。
「今度お父様にお願いして、先生のご本を買ってもらいますわ」
「あまり出していないですから、手に入るかどうか。友人に言って自宅にある分
を送らせましょうか」
「そんな……そこまでしていただいては」
「いいんですよ。たいしたものでもないですから」
そのたわいない約束が、結果として彼と静を結びつけることになるとはこの時
の彼には知る由もなく……ただ、避暑地の片隅で出会った淡く揺れている少
女の印象が記憶のどこかでイメージの反復と増大を繰り返していることに、新
作の構想をまとめながらも引っかかりを覚えるのみであった。

 この地へ来て一週間が経過していた。彼はホテルから見える湖の景色に想
像を膨らませながら、新作の構想をまとめつつあった。
 その日は雨が降った。さいぜんまでの好天が全くの嘘のように、闇のごとき
黒雲は瞬く間に空を覆うと、ぽつり、ぽつりと冷たい雫が降りてきて、それは時
を置かず視野を埋め尽くした。突然の豪雨は街を、高原を、そしてサナトリウ
ムを激しく叩いた。その猛威はさながら自然の復讐のように、人々の心深くま
で濡らして夏の乾いた気分を奪い去った。あたかも雨が自らの存在を主張し、
忘れ去られていた潤いを強引に植え付けでもするかのように。
 暗雲は小一時間もすると気紛れに霧散し、空はまた太陽を取り戻していた。
彼はホテルを出て、街へと向かってみた。あちこちで水たまりを作ってきらき
らと陽射しを反射する路面は眩しすぎて、彼はもう開けているか閉じているか
解らないほどに目を細めて歩かざるをえなかった。途中、有り難くない恩恵を
被った人々がちらほらと見受けられた。湖に飛び込んだかのように全身ずぶ
濡れの彼等は、口々に昼下がりの変転に不満を漏らしていた。
 そういえばあの少女はどうしたろう、と彼は静のことを思い起こした。この雨
にあたっていなければ良いのだが……。俄に向きを変えると、彼は高原への
緩やかな傾斜を登り始めた。
 坂道は泥水混じりで、歩く度に泥が靴にからみついた。その困難さを伴いな
がら、それでもやっと登りつめると、サナトリウムの白い建物は汚れを洗い流
されたかのようにつやつやと輝いて斜面の中腹にあった。
 病院の受付で静の病室を尋ねてから、彼は身一つで来たことを悔やんだ。
花束でも持ってくれば良かったと今更思っても遅かった。思いつきの訪問な
のだからと自分に言い聞かせながら、彼は二階の一番奥の病室のドアをノ
ックした。
「はい?」
ほどなく返事がした。彼がドアを開けてみると、やけに広々とした室内の中央
に、ぽつりと不自然なバランスでベットと静の姿があった。
「まあ……先生!」
静は驚いて慌てて身を起こそうとした。彼はそれを手で止める仕草をして、
「あ、そのままでいいですよ」
と歩み寄った。静は寝間着の袂と髪を整え、客人を迎える最低限の身なりだ
けは維持しようと努めた。
「突然来たのでびっくりしたでしょう。驚かせて済みません」
「いいえ……」
心なしか静の頬は上気してほの赤く見えた。
「雨が降ったので、濡れて病気を悪化させてはいないものかと、ふと心配に
なったものですから」
「それはわざわざ……ありがとうございます」
「大丈夫でしたか?」
「実は、あの時ちょうどベランダに出ていたものですから、少し雨にあたって
しまったんです。それでちょっと熱が出てしまいまして……」
「そりゃあいけない!」
彼は静の頬の赤さを納得した。

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