「医者には言いましたか?」
「ええ、看護婦さんに……それで薬をいただいて、少し落ち着いたところでした
の」
「あ、じゃあ来たのはまずかったかな?」
「そんなことありません。来ていただいて、本当に嬉しいです」
そう言いながら、静はベットの脇にある小さな戸棚に目を走らせた。布団から
手を抜きだし、戸棚を開けようとする。
「済みません。お茶もお出ししないで……」
「そんな、静さんはじっとしていて下さい。自分で淹れますから」
彼は代わりに棚から急須と湯飲みを取り出すと、慣れた手つきでお茶を淹れ
た。一人暮らしが長いので、それらの動作は習慣となっていた。ポットのお湯
はやや温めだったが、この暑さなのでちょうど良いと思えた。茶葉も少な目に
し、あっさりと飲みやすい味にした。お盆に茶碗が二つ、ほのかに湯気をあげ
てことりと置かれた。
 静はおずおずと身を起こし、そっと茶碗を手にした。
「本当に済みません」
「いいんですよ。突然おしかけたこちらが不作法なのですから」
彼はふっと微笑してお茶を口にした。その様子に、静もうっすらと笑みを浮か
べた。淡く揺れる印象は、絶えず静を幻想世界の住人のイメージへといざな
った。この少女は本当に天使かもしれないと彼が思うほど、静はまるで重さを
感じさせない手つきでお茶を飲んだ。
「お話の方はまとまりまして?」
静は遠慮がちに尋ねた。
「ええ。大体の構想はまとまりました。そろそろ執筆に取りかかろうかと思って
います」
「出来上がったら私も読んでみたいです」
「是非お見せしますよ」
時には誰かの為に作品を書くというのも悪くない、と彼はふと思った。この少
女が望むのなら、自分はこの夏の間に作品を仕上げてみようかという気にな
れた。それは顔の見えぬ遠い読者よりも、遙かに執筆の活力たりえる動機で
あった。
 病室の窓からは山並みが一望できた。あの豪雨をもたらした底意地の悪い
雨雲の切れ端が、遠く霞む山の頂きに架かっていた。
「良い景色ですね」
「はい……でも、湖が見えなくて少し残念です」
彼は病室から続くベランダに出てみた。ぐるりと首を捻ってみても、確かに湖
は視界に入らなかった。ちょうど反対側になってしまうようだった。
 風が優しく吹き抜けた。それは病室に新鮮な空気をもたらし、またいずこか
へと去っていった。本当に穏やかな夏の午後であった。駆け抜けた雨が涼や
かな湿り気を与えてくれて、気怠い暑さは全く感じられなかった。この心地よさ
が永遠であったなら……彼はそう願わずにはいられなかった。

 それからは毎日三十度を越える日が続いた。幾分体力の減退を覚えながら、
それでも彼はぽつりぽつりと原稿用紙に新作を埋めていった。その間静の面
影がちらつくことがしばしばあった。作中に登場するヒロインに少女のイメージ
が重なり、いつしか幻想的な空気が滲み出すようになっていた。陽炎のように
淡くゆらめく儚げなヒロイン像に引きずられて、作品もまた非日常的雰囲気の
浪漫な味わいに満たされていった。その予想外な効果に、彼は今回の執筆を
自分自身楽しんで作業することができた。
 ある真夏日の陽射しの午後、彼は湖畔に立ち並ぶ商店街の一角の喫茶店
でくつろいでいた。コーヒーを注文しつつも、メニューに何故か団子があること
に片田舎の風情を覚えて、思わずおかしさがこみ上げてきた。窓の外では汗
を拭きながら男達が行き交っていた。その炎天下の路上をぼんやり眺めてい
ると、
「おや、あれは……」
その汗だくの人々の中にあって、白い日傘に白のワンピースで楚々とゆく少女
の姿が目に止まった。誰であろうそれは静であった。こんな真昼に出歩いて大
丈夫なのかと彼が思っていると、その隣には父親らしき人物が付き従っていた。
体格はしっかりしているが、温厚そうな紳士に見えた。傍目には資産家とその
娘と映った。確かにサナトリウムに長期入院させる位なのだから、それなりに
裕福なのであろう。
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