彼の心にずっと引っかかり続けていたこと。それはやはり静であり、少女へ
の罪の意識であった。
「静さん……一緒に生きることも、死ぬこともできなかった……それが、悔いと
いうものだ」
何度彼はそう心の中で呟いたことだろう。あの日、静の最期の顔は確かに笑
っていた。そして静が最後に彼に伝えた想い、それは、
『ありがとう』
という一言であった。あの唇の動きは、はっきりとそう言っていた。それを示す
ように、彼の手の中で静の温もりはいつまでも消えずに残っていた。けれども
彼は自分の中で静に対する救いを見出せずに、ずっと贖罪すべき何かを求め
続けた。それが見つからずに終わってしまうことが、彼に残された唯一の心残
りだった。
「確かに静さんは最後にああ言った……けれど、本当にそれで幸せだったの
かい?私は何もしてあげることができなかった。そしてその罪を償うことさえで
きずに、この世を去ろうとしている。どうやったら、許してもらえるのだろう……」
彼が悲哀の色を湛えてそう問いかけた時、
『そんなことはありませんよ』
ふいに少女の声が彼の耳に響いた。その囁きに誘われるように顔を上げると、
夕陽を反射して金色に照り映える湖面にさざ波がなびき、その上に一人の少
女の白い影が浮き立った。いつか見た光景のように、ほんのりと淡く揺れる影
はゆったりと振り返った。それは、まぎれもなく静であった。
「静さん……!」
静はあの頃と少しも変わらず、白いワンピース姿で優雅に微笑していた。
『私はとても幸せでした。先生に会えて……』
「……!」
静は軽やかに近付くと、もうすっかり老いさらばえた彼の手を優しく取った。そ
の暖かみは、まるっきり昔のままだった。
「本当に……本当にそう思うのかい?」
『ええ、もちろんですよ』
「良かった、静さんにそう言ってもらえて……。私はずっと、その言葉を待って
いたのかもしれない……」
ようやく彼も、全てのわだかまりを捨てることができた。今や彼は過去を振り
返ることを必要としなかった。
 晩夏の爽やかな風が二人を包んだ。もう未練は何もない。あとは旅立つだ
けだった。
『さあ先生、これからはずっと二人一緒ですからね……』
「ああ……」
すると彼もいつしかあの若き青年の姿に戻っていた。静は彼の手を導いて、
ふわりと飛び立った。二人は今、一切のしがらみから解き放たれて、どこまで
も飛翔してゆくことができた。そう、あの空の向こうまでも……。
 そして湖畔の片隅では、満足げな笑みを残して瞳を閉じた老人の影が、沈
みゆく夕陽の輝きの中に消えていった。
    それは、黄昏に舞い降りた死という名の天使であった。
 

                                            完
 

                                 (1997 8 31 著)
                                (2000 10 3 改訂)                  


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