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  風吹きて 舞い散る淡き 野辺のひとひら
             夏を残して 君ひとりゆく……

それが繰り言のように口をついて出て、はて、これで何度目だろうかと彼は
自問した。もう数え切れないほど、ずっと以前から自分はこの詩句を繰り返
していたような気がする。失われた愛すべき者の心を抱くように、夏が来る
度に幾度となく。
「何か言いました?」
彼の乗る車椅子を押していた看護婦が尋ねた。彼はどこか気怠げに、
「いや……」
とそれだけ言った。
 車椅子は少し軋む音を夕方の涼しくなった空気に滲ませて、緩やかな坂
道を下っていった。その視野に、湖が次第に迫るように拡大してきた。周り
には随分と建物が増えたが、湖面はあの頃と少しも変わらず穏やかに揺
れていた。
 ふと目を落とすと、すっかり皺だらけになった手足が着物の裾から伸びて
車椅子の上にあった。たとえ自然の在りようは変わらなくとも、月日は確実
に一人の青年を老人へと変貌させていったようだった。
 湖畔に辿り着くと、彼は車椅子を止めてもらった。そこから臨める湖の色
が以前と同じであることに頷くと、彼は看護婦にしばらく一人にしてほしい
と頼んだ。
「そんな、患者を一人にできる訳ありません」
「少しの時間でいいんだ……せめて、一時間位……」
看護婦は事務的態度を崩さないまま、困惑の表情をあからさまに浮かべ
た。だが、一寸考える素振りを見せると、
「じゃあ、少しだけですよ。お薬の時間までには迎えに来ますからね」
と言い置くようにして渋々その場を立ち去っていった。
「ありがとう……」
その背中に謝辞を投げると、彼は泰然と湖面の揺らめきを眺めた。ここ
へ来るのは本当に久しぶりだった。それだけに、ゆっくりと自分の時間を
作りたかったのだ。残された刻(とき)があまりないと知れば、それは尚更
であった。
 既に昭和が終わり、新しい年号が始まっていた。彼の中でも確実に一つ
の時代が終わりを告げていた。昭和を代表する人々が、まるで亡き昭和
の象徴に導かれるように先立ってゆく中で、彼もまたこの新たな時代には
必要のない人間だと思っていた。自分はやはり昭和という激動の中に生
きたのだ。これからの世は、これからの人々が作っていけば良い。 なに
よりも、自分は少し長く生きすぎたと彼は感じていた。
 孤高の作家と呼ばれた半生。それは、好きな時に好きな作品しか書か
なかった彼を指すには、あまりある賞賛であった。ある意味ではそうだっ
たのかもしれないが、同時にそれはエゴイスティックに生きた証しでもある
のだろう。一時は周囲に推されて結婚したこともあったが、夫婦生活は十
年と続かなかった。
「あなたの瞳はいつも遠くを見ているわ。決してあたしを見てはくれなかっ
た。あなたが見つめているのは、いつも静という少女なのよ……」
別れ際、妻はそう言ったものだ。恐らくそれは事実だろうと思えたので、
彼は何も反論せずに妻が去るのを見送った。だが不思議と悲しみは覚え
なかった。その後こうして一人片田舎で朽ちてゆく自分にも、彼は別段不
幸だとは思わなかった。
 そして今、老境の彼はあの懐かしき湖畔に佇んでいた。静と過ごしたサ
ナトリウムはその後町立病院として改築され、今では見る影もなくなって
いたが、半身を患ってもはや歩けなくなった時、彼は望んでそこに入院し
た。どんなに変わり果てても、ここが思い出の地には変わりなかった。車
椅子であたりを散策すれば、懐旧の日々は少しも色褪せることなく眼前
に蘇った。そうして彼は過ぎ去った五十余年をひと夏で取り戻していた。
その一方で確実に余命を消費しながら……。
 町並みはすっかり変貌を遂げ、近代的な建築物が空を狭めていたが、
ここから見える湖面とそれに続く高原の風景だけは元のままだった。そ
れが彼にはとても嬉しかった。遠く目をやると、太陽は山々を一日の終
わりの色で染め上げながら、ゆっくりと彼方へ去ろうとしていた。その夕
映えまでもが、暖かな懐かしさを含んでいると彼には思えた。

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