夜の闇は静寂さを湛え、ただ虫の声だけが虚無の空間から湧き出していた。
見上げても星ひとつ見えない空。見下ろしても無きに等しい町の灯り。そのど
れもが心を締め付けることを助長しているように感ぜられて、彼は自分の居場
所はこの世界のどこにもないと思えた。あるとすれば、それはやはりあの消毒
薬の匂いにまみれた静の病室だけであった。それを痛切なまでに自覚して、彼
はまたふらふらと今にも倒れそうな歩みで病院の廊下を進んだ。その傍らを慌
ただしく往来する看護婦達は、切迫した空気に包まれながらも、どこか職務を
全うしている充実感に満ちていた。その健全さが、今の彼には心底羨ましかっ
た。
病室の入り口で、パイプ椅子に腰を下ろした静の父が鎮痛な面持ちで廊下
の床に目を泳がせていた。彼の姿を認めると、重苦しそうに、
「こうなることが運命であったとしても、あれには幸せだったのだろう……そう
思わなければ、あの娘も我々もやりきれんよ……」
と自らに言い聞かせるように呟いた。彼はその言葉に縋りたい気持ちを半ば
抱きつつも、
「そうなのでしょうか」
と問いかけていた。
「人には天命というものがある。それを全うすることだけが、人にとっての最良
の幸せだよ……」
「けれども……」
こんな短い人生が、静にとっての天命だったのだろうか。そうぼんやりと考え
ながらも、それは誰にも解らないことだと彼は思い至った。人には窺い知るこ
とのできない自然の作用、それが生物の生き死にを左右しているのだ。それ
を操ることは、まさに神にしかできない所業なのだろう。どれ程医学が進歩し
ようとも、生命の終わりを止めることなどできるはずもなかった。
「……そうかもしれませんね」
諦念と共に、彼はそう答えるしかなかった。
明け方、誰もが疲労と眠気で朦朧としている頃、静はふいにうっすらと目を
開いた。真っ先にそれに気付いた彼は、慌ててその顔を覗き込んだ。
「……静さん!」
その呼びかけに、静はほんの少し瞳を動かしたようだった。彼は静の手を掴
むと、想いの限りをそこに込めた。
「静さん、私だ……解るかい?」
静は頷く気配を示してくれた。それだけで彼は涙が溢れそうになった。周りの
者達も二人を注視し、腰を浮かせた。
何か言いたげにする静の口許へ、彼は微かな吐息すら聞き逃すまいと耳を
近づけた。吸入器を僅かに持ち上げると、彼は自分の心臓の音さえ押し殺し
てその口から漏れる呼吸に耳を澄ました。
「……せん……せい……」
確かにそう聞き取れた。そして次の瞬間、
「………」
僅かな、けれどもはっきりとした唇の動きと暖かな呼気の中に、彼は声になら
ない言葉を静から受け取った。それが心の奥まで伝わって、彼が驚きと共に
見つめ返した時、静はふわりと口許に穏やかな笑みを浮かべ、どこか安心し
た表情のまま、その瞳を永遠に閉ざした。
「……!!!」
ひとつの絶対なる終焉が、彼等の眼前を無明の闇に塗り潰した。それと入れ
替わりに、彼を優しく包んでいた天使は今、永久に手の届かぬ彼方へと飛び
去っていった……。
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