ぽつりと吐いたその言葉に、彼は激しく打ちのめされた。無意識のうちにこぼ
れ落ちたこの相反する望みこそが、静の本心であると彼には思えた。だがそ
の願いはどうしたら届くというのか。どうすれば、この苦痛を断ち切ってやるこ
とができるのだろうか。困惑と混濁の末、麻痺し始めた彼の意識は、気が付
くと静の首に両手をかけさせていた。
「……!」
この両腕にほんの少し力を加えてやれば、静はきっと楽になる……そんな囁
きが耳元でしたと思った。だが次の瞬間、彼は自分の行為に恐怖した。恐る
恐る手を離すと、もう静の顔を直視することもできずに、急き立てられるよう
に彼は廊下へと駆けだしていた。裏口を抜け闇雲に走り回ると、彼は裏手の
雑木林の一本の木にうずくまった。震えがとめどなく身裡から湧いてきて止ま
らなかった。自分は今何をしようとしたのだ?一瞬でも静の生命を断とうとす
るなんて……彼は自らに取り憑いた狂気に心底怯えた。そんな罪が誰に許
されるというのか。無論誰にも許されるはずがなかった。たとえそれが救い
であろうとも、そんな一瞬の救いに縋って何になるというのだろう。その後に
は永劫に続く後悔が待っているだけなのに……彼は真の絶望に叫びわなな
いた。
そして同時に、今まで彼が静に抱いていた幻想が、全くの幻想でしかなか
ったことを心底痛感した。身勝手なまでに実在する少女に天使の幻を重ね
ていた結果が、これであった。静は厳然として静なのだ。天使でもなければ、
幻想世界の住人でもなかった。あまりにか弱き一人の少女でしかない。そん
な少女に、自分は何を見出そうとしていたのか。絶え入らんばかりの自我に、
彼はつくづく自分が嫌いになっていた。
しばしの苦悶と慟哭。だがそれでも彼は立ち上がった。これが運命であり
現実だというのならば、それを見届ける義務が彼にはあると思えたからだ。
今静が直面している苦痛に比べれば、それは何と小さいことか。そこから目
を背け、逃避するのは静に対しあまりにも申し訳がなかった。生きている以
上、生きている者の為すべきことがあるはずなのだ。それをしないうちは、
誰一人救えはしないと彼は思った。
ふらつく足取りで彼は病室に戻った。その気配に静は微かに顔を動かし
て、小さく口を開いた。
「……あと少しで、楽になれましたものを……先生も……私も……」
「……!」
その言葉が心に届くと、彼はまたも涙を流していた。それが静の苦しみから
出た本音ではなく、彼に対する優しさから生まれた言葉であることは痛いほ
ど解っていた。だから余計辛く悲しかった。
長い沈黙が夜の病室を支配した。やがて、声を殺して泣いている彼に、
「……ごめんなさい……私、もう少しだけ、頑張りますね……」
静は精一杯の健気さを示してくれた。彼は返事もできないまま、溢れ続ける
涙を止められずに立ち尽くすだけであった。
もはや静は枯れてゆく花のように体力を衰えさせるだけだった。数日後、
彼の打った電報で静の両親が病院に到着した。その頃にはもう静の意識は
現実と幻覚とを行き来していて、その区別がはっきりしなくなっていた。そん
な変わり果てた姿に、静の母はただ涙するだけだった。そして担当医は、冷
酷にもあと一両日が峠だろうと彼等に告げた。
「覚悟していたこととはいえ、こうも目の前に突き付けられるとやはり、辛い
ものだ」
静の父はそれだけ言った。彼は何も言うべき言葉を見出せずに、ただ呆然
と窓の外へ目を逸らすことしかできなかった。
その夜、少し意識を取り戻した静は、殆ど聞き取れるか聞き取れないかの
ような呟きで喉の乾きを訴えた。静の母はぽろぽろと泣きながら洋梨を一切
れ擦り下ろしてやった。静は僅かに口を動かしてかろうじて一口飲み込むと、
「ああ……美味しい……」
と微かに喜びの声を上げた。けれども、それを最後に静の意識は昏睡の泥
の中へと沈んでいった。
点滴を繋がれ酸素吸入器をあてがわれた静の姿を見るに耐えかねて、彼
は夜の病院の玄関にふらふらと佇んだ。もはや本当に打つ手は何もないと、
彼は半ば虚ろになった意識で認識した。どうあっても時間は逆行してはくれ
ない。残酷なまでに一方的に流れてゆくだけなのだ。そして彼は、残された
短い時間の中でもうすぐ訪れる現実を受け止めなければならなかったが、そ
の準備は到底できそうもなかった。
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