「私ね、今日の空を見ていたら、何だかあの日のことを思い出して……」
「久しぶりに晴れたからね。そういえばここの空気は結構涼しいままだなあ。町
の方はかなり暑かったのに」
彼はベランダへ出てみた。湿気がない分、空気が爽やかに感じられるのかもし
れない。軽やかな風が心地よさを増していると思えた。
「私もベランダへ出てみたいです」
突然静が病室の中から言った。咄嗟に彼は振り返って訊き返した。
「大丈夫なのかい?」
「今日は調子もいいみたいですし、ね、少しだけ」
「けれども……」
「だって私、ここしばらく病室の外へ出ていないんですよ。せめてベランダ位よろ
しいじゃありません?それにあの高原の景色を思い出したら、もうじっとしている
なんて耐えられないですもの」
「……そうかもしれないな」
静の懸命な主張に、彼は苦笑しながらもその我儘を叶えようとした。彼女に近
付くと、両腕でひょいとその身体を抱きかかえる。一瞬静は息を飲んだが、すぐ
さま彼の頭へ腕をからげて、顔を胸の中にうずめた。持ち上げた静の体重は驚
くほど軽かった。それはまさしく、天使の透明感だった。
 慎重に歩んで静をベランダの白い板の上に座らせると、彼もその隣に腰を下
ろした。静はゆったりと足を伸ばして、気持ちよさそうに空を仰いだ。
「……いい風ですね」
「麦藁帽子も必要だったかな」
彼のその言葉に、静はくすりと笑った。その声はもうすっかり掠れていたが、清
楚な響きがあった。
「あの時も、こうしておんなじ風景を眺めましたよね。私が倒れそうになって、先
生が支えてくれて……」
そう言うと、静はそっと彼にもたれかかった。彼もまた、あの日のように静の肩
を抱いた。とても懐かしい匂いがあたりに満ちてきたと彼は思った。ほんの一
年前だというのに、随分と昔のことのように回顧できる遠い夏の一日。あの時
の彼にはまだ静の想いを思いやる余裕も、自分の本心に気付く繊細さもなか
った。けれども見果てぬ希望が溢れていた。来年を夢想できる希望が……。
しかし今はもう、それすらもが叶わぬ夢となってしまっていた。
「……でも、先生はお優しいから、きっと次の夏もこうやって私の心を抱いて下
さるのでしょうね」
彼の心を読んだかのようなその言葉に、彼は驚いて静を見やった。心なしか静
の瞳は潤んでいるようだった。
「そうだね、きっと……」
彼はいつかそうやって応えたように、肩に回した手に少し力を込めて頷いた。
それは、彼と静を繋ぐ永遠の約束だと彼には思えた。事実彼はそうするだろ
う。来年も、その次の夏も、ずっと……。
 そうして二人は飽くことなく夏の空と山々を眺め続けた。この季節と風景を、
自らの心に焼き付けるかのように。

 八月が終わりに向かうと共に、静の体調はみるみる悪化していった。熱の
上下も激しくなり、日に何度も発作が起こった。その息が詰まるような咳き込
みの度に、彼は静の背中を必死にさすった。けれども静は苦しげに呼吸を乱
すばかりで、病状が回復する様子はなかった。そうして彼も静も、日に日に精
神も身体も疲れ果てていった。彼はもう、叶うなら自分も一緒に彼岸へ渡れ
たらとさえ願うようになった。だが少しでもそんな弱気な素振りを見せると、静
は殆ど聞き取れるかどうかの声で、
「先生……先生には先生のお仕事があるのですから……」
と彼を生の世界へと追い立てるのであった。それは彼にとって何よりも辛い
糾弾に聞こえた。
 ある夜、静は激しく喀血した。看護婦が入れ替わり立ち替わりする病室の
隅で、彼は何もできずただその有様を呆然と見守るしかなかった。やがて発
作がひとしきり治まり看護婦達が退出すると、彼は傍らに跪き、静の触れれ
ば折れそうな手を注意深く握った。その感触に気付いてか、静がぼんやりと
目を開けた。けれどもその瞳はどこか曇り、虚ろに宙へ注がれているだけだ
った。
「……私……死にたい……でも、生きたいの……」

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