病室へ入った彼を、静は普段のように密かな微笑で迎えてくれた。その笑み
の中に少女の想いがどれ程詰まっていることか。そう思うと彼はどうしても目頭
が熱くなった。
「体調はどう?」
「今朝の検温ではいつも通りでした……」
「咳の方は?」
「朝方少しひどかったのですが、今はもう……」
その報告を聞くと、彼はベットの傍らにある椅子に腰掛けた。静の肌にも髪にも、
もう昔日のつややかさはなかった。眼の下には隈が浮かび、頬は削げて張りが
失われていた。それは少女の年齢を考えるとあまりに惨い様子なのだが、静は
それでも努めてたおやかに、愛らしさを保ち続けていた。彼が何気なく血管の浮
き出たその手を握ると、静はそれはもう生き生きと瞳を輝かせながら頬を薄赤く
染めて彼を見つめるのであった。言葉少ない二人の生活のほんの片隅に、惹か
れ合う絆の結びつきはいくつでも再確認することができた。
 途中買ってきた新聞に目を落とすと、記事は戦争関連で埋め尽くされていて、
憂鬱な色彩に支配されていた。
「何か面白いことはありまして?」
静がぽつりと尋ねた。
「いや……相変わらず暗いニュースだけみたいだ。どうもアメリカとの開戦は避
けられないようだね」
「まあ……戦争が近いのでしょうか」
「今すぐここに爆撃があるという訳ではないだろうけど……」
そう口にしながらも、彼は世間の出来事がひどく自分達とは無関係のことのよう
に感じられた。世界情勢だとか、戦争だとか、それらは当事者でないこの二人
にとってどれ程の意味を持つというのか。それよりも確かな現実は、まさに迫り
来る死そのものであると思えた。
 一日の終わりをただ二人で見つめる。それだけが時間の推移であるかのよう
に彼と静は沈黙を共有した。そうやって同じ景色を眺めることに、彼は静との繋
がりを求めながら心の在りどころを依存していった。そしてこの日もいつもと同じ
く、少し早い就寝時間の訪れと共に彼は病室を退室した。その帰り、彼は担当
の看護婦から今朝静が少し血痰を出したことを聞いて、またも死が一歩近付い
たと知るのであった。

 久しぶりに晴れ間が臨めた日。彼は町の中に唯一ある小さな教会の前に立
っていた。教会と言っても民家に少し手を加えた程度で、屋根に掲げられた十
字架が目につかない限りそうは思わないであろう。彼が中へ入ると、礼拝堂に
なっている広間には誰もいなかった。その一番奥に小さなキリストの像があっ
た。彼はその手前まで歩んでみて、やや煤けた印象のキリスト像を見上げた。
正直今は神にでも縋りたい心境であった。だがそれ以上に、あまりにも救いの
ない静の運命にやり場のない憤りを覚えてしまうのだった。
「神よ……あなたがもし実在するというのであれば、どうして救いの手を差し延
べないのでしょうか。今ここに確実に死を迎える、罪なき少女がいるというのに
……」
思わず彼はそう問いかけていた。それがどれ程理不尽な要求であろうとも、吐
き出さずにはいられなかった。
「それが運命だというのならば、私は絶対に否定します。たとえ神に背いても
……」
それだけを言って、彼は教会を後にした。去り際ちらと振り返ると、キリスト像
はどこか悲しみを浮かべているように見えた。
 町の通りにはいつしか活気が戻っていた。往来の人々は額や腕に汗を浮か
べながらも、長らく忘れていた夏の空気に、俄に蘇生したかのような生の充実
感を漲らせていた。そのどこまでもありふれた日常に、彼はもうそこには自分
達が入り込む隙はないと感じていた。現実から遊離した幻想世界へ逃避する
あまり、自分も静もいつしか当たり前すぎる生活の基盤を忘れかけていると思
えた。そしておろそかになった足元には、もう平凡な幸せという名の着地点は
見えなかった。
 サナトリウムに着いた彼が病室へ入ると、静はことさら嬉しそうに彼を見返し
た。その様子に、彼はおやと小首を傾げた。
「……?」
「先生、いつか二人でこの高原の上の方へ行ったの、覚えてらっしゃいます?」
「勿論」

もどる  すすむ