「そんな……」
「悪い意味でちょうど良い時に来てもらったと思う。頼む、静の最期を見届けて
やってもらえないだろうか。あれの気持ちは理解しているつもりだ。あなたに看
取られるのなら、あの娘も少しは救われよう……」
「……私に、その資格があるのでしょうか」
彼の口調は半ば放心したままであった。
「私は静さんと再会を約束しておきながら、一年もそれを放ってしまっていた。
そんな私が、静さんの人生の終幕に立ち会って良いものでしょうか」
「そう思うなればこそ、尚更ではありますまいか。少しでも悔いのないよう……
静にとっても、あなたにとっても……」
「………」
「ま、これもまた親馬鹿なのだろう。親馬鹿ついでに最後の頼みだと思って聞
いてはくれないだろうか」
「……はい」
「済まないですな……」
あとは互いに言葉が出てこなかった。ただ虚ろな現実があたりを包んでいた。
現実?そうなのだろうか。彼には何か、この瞬間がひどく後味の悪い悪夢の
続きのような気がしてならなかった。
 日も暮れかけてから、静の父母は帰っていった。その間彼は殆ど無言で静
と父母の会話を眺めていた。だが意識は一向に視線と一致せず、頭の中で
さっきの父親の言葉がぐるぐると思考を掻き回しながら反復し続けていた。両
親が去り、どこか空疎になった病室で未だ虚脱したままでいると、やがて静が
ぽつりと口を開いた。
「先生……父から私のこと、聞いたのですね」
「……!」
その言葉に彼の意識は俄に現実へと立ち戻った。こわばった表情のまま静を
凝視する。その頬は張り付いたかのように思うように動かず、何も喋ることが
できなかった。
「私も気付いていました……もう、長くないって」
静の口調は弱々しくも、あくまで穏やかであった。
「………」
どうにも声が出ないまま、彼は呆然と静を見返した。自分が何を考え、何を言
おうとしているのか全く解らずにいた。ただ、何かを言わなければならない、
そんな強迫観念に似た想いだけが空回りし続けた。
「でも、だからこそ、せめてもう少しだけ生きたい……そう思うのです。ちゃん
と生きて、そして……」
「……静さん」
やっと絞り出した言葉の単純さに、彼は自分が本当に作家なのかと疑いたく
なる程悲しくなった。
「ですから……先生、もう少しだけ私の側にいてくれませんか」
それは少女にとってどれ程精一杯の強がりであったことか。本当なら眼前の
恐怖に号泣していてもおかしくはないのだ。それなのに、彼の前で気丈さを
失わずに振る舞うこの健気さ。それを知ると彼は静の布団の上に顔を埋め
ていた。現実を前にした自分の無力さと無能さが悔しくてたまらなかった。こ
の少女に対して何ができるというのか。この運命にどう抗しうるというのか。
彼はもう、ただ漫然と確実に訪れる少女の死を待つことしかできない。それ
だけが、彼に許された唯一の手段なのだ。そう思うとあまりにやりきれず、た
だ呻吟するしかなかった。
 静は打ち震える彼の髪をそっと撫でながら、
「でも私、けして不幸ではないのですよ。こうして先生と一緒なのですから…
…」
と甘い囁きのように語りかけた。それは彼の心を潤す慈愛の雨に等しかっ
た。救うべき者と救われるべき者が逆転していると思えたが、それでも彼は
静のその言葉に感謝せずにはいられなかった。
 そしていつしか窓の外でも、雨がひっそりと降り始めていた。

 夏らしい天気も拝めないまま、八月も半ばを過ぎようとしていた。山々の頭
上には、今日も分厚い雲が落ちてきそうなまでに低く垂れ込めていた。それ
がゆっくりと引きずるように移動してゆくさまを虚ろに眺めながら、彼は湖岸
に一人佇んでいた。風はなく空気は変に生温かった。湖もまた、雲を映して
灰色に鈍く揺れていた。その何もかもが去年とは違うように思えて、彼は一
年前の眩しく輝く記憶が全て偽りではないかと疑いたくなった。ほんの数日
前までありありと見出すことのできた静のいる幻想風景も、もはや彼の裡か
ら湧き出すことはなかった。今彼の思考を支配しているのは、死とは何なの
かという疑問であった。この、普段は殆ど意識することなく過ごしているにも
拘わらず、確実に誰であれ等しく訪れるひとつの終わり。それは絶対なる終
焉であり、生とは対を成すものであったが、けして表裏一体であるばかりで
はなく、同時にひと続きの道程であるとも思えた。だが、たとえ魂が輪廻す
ると信じてみても、現在の人格が来世へも引き継がれることはないだろうし、
また今こうして生きている者が消滅するということは、概念のみで割り切れ
る問題ではなかった。それは確かに悲しみであり、絶望であり、身を引き千
切られんばかりの痛みであった。そして今、自分はただ愛しい者が死へ向
かうのを為す術もなく見続けなければならないのだ。これは真実辛いという
より他なかった。
 いつものように緩やかな坂道を登りながら、その路傍に一群れの小さな
花が咲いているのを見つけ、彼はふと去年静と高原へドライブした時、 頭
の中でちらちらと見え隠れしていたイメージを思い出した。あの時は言葉に
なってくれなかったが、その後彼の中で形作られた詩句、

 風吹きて 舞い散る淡き 野辺のひとひら

という上の句に、今彼はある下の句を思いついていた。だがそれはあまり
に現在の彼自身の悲哀を反映しすぎていて、彼は素直にその二つを繋ぐ
ことを拒んだ。それを詠むことは今の彼には残酷すぎる感情表現であり、
まだその勇気は持てそうになかった。彼はその言葉を意識の底に飲み込
み、無意識の彼方へ追いやろうとした。
 彼がサナトリウムの入り口に辿り着いた頃、山々の雲の一部が途切れて
僅かに光が湖の方へと差し込んだ。振り返った彼はその光の幾筋かに、
微かに残っていた幸福の残滓を見た想いがして、いつまでもそれを見つめ
ていたい衝動にかられた。

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