「あの作品に出てくる鈴という女性って、もしかしたら私がモデルなんじゃない
かしらってずっと思っていたのですけど……」
そこまで言ってから、静は彼を窺う様子を見せて、
「きっと、私の思い上がりですよね」
と少し声を落とした。
「そんなことはないよ」
彼はいつしか静に対しそういう口調で話せるようになっていた。
「確かに静さんのイメージが大きく影響している。そりゃあ、去年ここで書いた
作品なのだから当然と言えば当然かもしれない。でもね、静さんがいなけれ
ば成立しなかったのも事実なんだ」
「まあ……本当ですか。私、あの作品すごく好きなんです。何かこう、不思議
な魅力があって……」
静の表情は俄に輝きを増して晴れ渡った。
「ははは……ありがとう」
彼は照れ笑いしながら応えた。自作を真っ正面から批評されるのは恥ずか
しいものがあったが、静がそう言ってくれるのが彼にはとても嬉しかった。け
れどもその一方で、彼が静に抱いている天使のイメージについては、けして
彼女に語ることはなかった。まるでそれが、彼にだけ許された媚薬のごとき
ささやかな幸福であるかのように、その胸に想いを仕舞い込み続けるのであ
った。

 一週間も過ぎた頃、静の両親がサナトリウムを訪れた。初めて会う静の母
は、聡明な印象を保ちつつもどこか疲れた表情を浮かべて彼に挨拶した。
「いつも娘がお世話になっております」
「いえいえ、たいしたこともできなくて」
彼は軽く会釈しながら、静の父をちらと見やった。父もまたどことなく憔悴して
いると感じられた。それでふと、彼は父が静の病状について何か知っている
のではないかと思った。
 病室に静と母を残して、彼と静の父はついと中庭へ出た。空は今日も薄暗
く曇っていた。彼がこの地に来て以来天候不順が続いていたが、今は一層
圧迫感を増しているように見えた。それが意味のない焦燥感を掻き立て、ど
こか彼の気分をすっきりさせなかった。
「また来ると約束しておきながら、随分と遅れてしまいました」
さも散歩風に歩きながら、彼は前を行く父親の背中にそう語りかけた。
「いや、あなたにも仕事があるでしょうからな」
「静さんにはだいぶ寂しい想いをさせてしまって」
「それは私達も同じこと。親としてもっと身近にいなければとは思うのだが、
事業の方が今大事な時期を迎えていましてな……」
「それで……」
彼は躊躇しながらも、少し間を置いてやや緊張気味に問うた。
「静さんの具合なのですが……」
「あなたにはどう見えますかな」
「はあ……率直に言ってよければ、あまり回復に向かっているとは思えない
のですが……」
「でしょうな。事実あの娘の体力は落ちる一方だ」
「もっと他に良い病院はないのでしょうか」
「いや……既に遅いでしょう」
「え……?」
父親のその言葉に彼は引っかかりを覚えた。次に出てくる言葉を予期する
うちに、彼の胸に不安が湧きだした。
「それはどういう……?」
口の中が妙に乾いて不快だった。一体何を伝えようというのか。彼はまん
じりともせず父親の次の言葉を待った。
「あなたには本当のことを伝えた方が良いかと思いましてな……静はもう長
くはないのです」
「……!」
その瞬間彼は本当に息が詰まった。今しがた父親の口から発せられた事
実が、意識の中でゆっくりと反芻され、そのあまりに重苦しい現実に彼は
窒息感を味わった。足が止まり、あやうくその場に崩れ落ちそうになる。
「……どうして……」
口から零れた言葉は、まるで意味を成していなかった。
「思ったよりも肺をやられておるんですよ。あれでは保たないだろうと院長
も言っておる。気付くのが遅すぎた。私もこの春には退院できるものとすっ
かり思い込んでいたが……」

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