「あら、いやだわ。私ったら……どうしたのでしょうね……嬉しいはずなのに…
…」
だが言葉とは裏腹に、涙は後から後から溢れて止まりそうもなかった。静は笑
顔を消さないようこらえながら、懸命に小さな掌で頬を拭った。
「……ほんと……おかしい……ですよね……」
けれどもその声は涙にかき消されていくばかりであった。やがてその雫がはら
はらと布団に落ちた時、彼は全てを理解した。静の心の裡に秘めた想い、そし
て気付かずにいた自分の本当の気持ちを。彼は殆ど反射的に、静の痩せぎす
の身体を抱きしめていた。
「……先生?」
「……ごめん、今まで来られなくて……私は……私は……」
あとは言葉にならなかった。自分は何と愚かだったのだろう。心の奥に隠れて
いた本心に気付かず、いや知っていながらもそれを認識しようとせずに、表層
的に静を妹のような存在だと思い込んでいたのだ。そんな気持ちはありえない
と故意に押さえつけながら、今の今まで大人ぶって優しい年長者を演じていた
のだ。だが事実はまるで違った。自分は静のことを……。
「……いいのです。先生は約束通り来て下さいました。それだけで充分です…
…」
泣きながら静はそう応えていた。その声はどこまでもつややかに響いた。ひと
しきり嗚咽がおさまると、静は彼に身体を預けたままそっと口を開いた。それ
は静のとても小さな、けれども大きな決意であった。
「先生……ひとつだけ、去年言えなかった言葉を聞いて下さい……」
静の細い腕が彼の背中にかけられ、そして力一杯その気持ちを表現しようと
抱きしめ返した。
    やがて静の想いが部屋中に溢れた。彼が優しく頷くと、あとは穏やか
な沈黙が二人を包んでいった。秘め続けた互いの心をそっと確認しあうかの
ように……。

 初々しくも甘やかな二人の時間が始まった。静の病状は明らかに去年より
悪化しており、彼は殆どつきっきりで静の看病を続けた。彼にとってはそれ
だけが、自分が静にしてあげられる全てだと思えた。そして彼も静も、そうし
て二人でいるだけで心が満たされてゆくのを実感していた。
 彼が来たことで静は幾分元気を取り戻していたが、病気の方は回復の兆
しを見せず、微熱が上がったり下がったりと不安定な状態が続いていた。だ
が医学の知識がない彼は、ただタオルを替えてやったり食事の世話をする
位しか出来なかった。それが彼自身もどかしかったが、その一方でどうして
も医師に現在の病状を訊くことができずにいた。心のどこかで事実を知るこ
とを恐れていたのかもしれない。それを知ってしまえば、この夢幻の時間は
終わりを告げてしまうような気がしていたのだろう。
 どれ程やつれても、静の幻想的な雰囲気は少しも変わらなかった。むしろ、
生活感を喪失してゆく中でその魅力は増しているとさえ言えた。彼は、ぼん
やりと遠くを見つめる静の横顔に、またも天使の魅力を覚えて一人満足げ
に微笑むことがあった。そんな時静は不思議そうに彼の笑みを見返して、
「どうなすったのです?」
と訊いた。彼は意味ありげな表情を残しながらも、
「いや、別に……」
とうそぶくのであった。それだけでもう、彼は幸福の断片を掴んだような気分
に包まれた。
 朝な夕な、ホテルとサナトリウムを往復するだけの生活。けれども彼はこの
町の風景のそこここに静の姿を見出すことができた。それは去年の、今より
少し元気だった頃の少女の面影だろうか。はたまたこれから病気が完治して
快活に町を闊歩する静の未来予想図なのだろうか。単なる幻や思いこみだ
けでは片付けたくない彼の想念の結晶、それが彼にそのような風景を想像
させるのかもしれなかった。と同時に、それを想起させる静の幻想性もまた、
依然として彼を取り込んでいると言えた。
 ある日の眠気を誘う午後。ぼんやりと小さな戸棚の上に据えられた花瓶の
花を彼が眺めていると、静がふいに口を開いた。
「そう言えば先生……去年書かれた新作ですけど」
「?」

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