(下)

 汽車はのどかな田園風景を離れると、次第に渓谷の間へと入っていった。車
窓から見える視野が原生林のような森の木々で埋め尽くされてゆくと、あたりに
は人間界から仙人界へと滑り込んでゆくような寂寥感が伴いだすのだった。そ
の車中にあって、彼は一人今までの一年を回想しながら、この夏への期待を膨
らませていた。
 彼が湖のある田舎町を訪れるのは、実に一年ぶりであった。昨年の夏、後ろ
髪を引かれる想いを残しながらも自宅へと戻った彼は、しばらくの間自作の上
梓と雑誌の編集に忙殺されることとなった。無論静との約束を忘れた訳ではな
かったが、現実の生活は遠く離れたサナトリウムに住まう少女のことを思いや
る余裕を奪っていった。そうしてようやく雑誌が出版に漕ぎ着けた冬、ある事件
が彼を襲った。雑誌に掲載されたささいな一文が反戦主義を煽るものだとして、
編集にあたった彼の友人が特高に連行されたのである。思想犯として捕らえら
れた友人を釈放すべく、彼は東奔西走せざるをえなかった。一時は彼にも嫌疑
がかけられたりしたが、それでもなんとか友人を救出した頃には、季節は既に
春の終わりとなっていた。そして身辺がようやく落ち着いたので、彼は再び避暑
地への汽車に乗ったのであった。
 静のことは心の片隅に引っかかり続けていた。彼が自宅に戻って以来、静か
らは幾度か手紙を貰っていた。始めは彼の作品に関する感想が中心だったが、
季節の推移にしたがって、その内容は心の寂しさを訴えるものへと変わってい
った。彼はどんなに多忙でも、返事を書くことだけは忘れなかった。手紙の中
の静は多感な少女そのものであり、時には湖の風景の移り変わりを綴り、また
時にはサナトリウム内の珍事を物語ったりした。その様子から彼女の感性の
健やかさを感ずると共に、文面から読みとれる限り病気も回復に向かっている
と見えた。彼に会いたいという切迫した想いも、体調が良好であるが故の心の
希求だと思えて、彼はどこかあっさりと静の病状について片付けていた。この
夏は静と様々な場所へ出かけられるのではないかと、彼は一人楽観的に夢想
していた。
 汽車が山間へ分け入ってゆくにつれ、重苦しい雲が頭上を圧迫するようにな
った。彼が窓から顔をちらと覗かせると、進行方向はまるで夜のような陰鬱な
雲に覆われていた。梅雨は明けたはずなのにと彼が鬱陶しげにぼやいている
と、やがて汽車は鈍い軋みを立てながら目的の駅へと停車した。
 もうすぐだ、もうすぐ静に会える。そう彼は心躍らせて駅の改札を抜けた。だ
が降り立った田舎町は、まるでうらぶれたように去年の輝きを失って彼の目に
映った。通りには人影も殆どなく、ひどく侘びしい印象が満ちていた。空の暗さ
ばかりではない、何か漠とした不安感があたり一帯を覆っていると彼には感ぜ
られた。それでも憂鬱な予感を振り払いつつ、彼はホテルへも寄らず重い旅
行鞄もそのままに高原のサナトリウムへと向かった。
 療養所の白い建物が見えた時、何故か彼はほっとした気分になった。町の
雰囲気があまりにも以前と違って見えたので、この坂道を登ってもサナトリウ
ムへ辿り着かないのではないかと、そんな心配がどこかにあったのだ。それ
が全くの杞憂であったことに、本来なら当然のことであるにも拘わらず彼は安
堵していた。
 遅々として進まぬ足を急かしながら病院の階段を登ると、彼は静の病室の
前に立った。あがっていた呼吸を整えて、彼はなるべく優しくドアをノックした。
「……はい?」
弱々しい少女の声が届いて、彼はドアを開いた。相変わらず妙に広い部屋の
中央に、ベットが一つと静の姿があった。それはまるで去年と変わりないよう
に、一瞬見えた。
「……!……先生」
だが驚いて声を上げた静の様子は、彼がベットへと近付くにつれてはっきり
以前とは違うと解った。ただでさえ細面な顔は更にやつれ、布団から見え隠
れしている手足はまるきり痩せ細っていた。起き上がろうとする動作もひどく
力無かったが、青白い表情にそれでも静は嬉しげに笑みを浮かべて彼を迎
えた。
「……来て下さったんですね」
どれ程か細くとも、それは心の底からの歓喜の声であった。そして次の瞬間、
彼を見つめる静の瞳からは涙が零れだしていた。

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