第2話 Sepia memories
朝の空気が店内に満ちていた。温もりの絶えた木製の椅子がひんやりとした冷
たさを伝えてくる。
見渡せば、本当にこじんまりとした店だった。十五人も入れば一杯になるこのカ
フェバーがこれまで続いてきたのは、あの奇妙ながらも独特の味わいを持つ東洋
料理と、何よりどこまでものほほんとした店長兼ウェイトレスの存在にあるのだろう。
ケインはまだ姿を見せない女性の笑顔を思い浮かべてそう思った。
なりゆきでこの店の用心棒を頼まれたケインだったが、了承はしないまでも、少
しの間ここに居候することにした。それは、とりあえず行く当ても仕事もなかったか
らなのだが、それだけではない何かをこの店に見出していたからでもあった。それ
が何なのかを見極めたいという興味が、今のケインにはあった。
「ふに〜、おはようございましゅ……」
当の店長兼ウェイトレス・アリアがパジャマのまま寝ぼけ眼で、住居となっている二
階から降りてきた。居候してみて分かったのだが、彼女は実に朝が弱かった。
「今からご飯作りまふね〜」
「いや、適当に済ませたからいい」
一人暮らしの長いケインにとって自炊はお手のものだった。朝食は既に昨日の材
料の残りで終わらせていた。
「あ〜……そうでふか〜……じゃあコーヒーでも入れましゅ〜」
あの猫のような耳を髪の間からぱたぱた上下させながら、アリアは薬缶を火にか
けた。その後ろ姿では、パジャマの隙間から覗くふさふさの尻尾が力なく左右に揺
れていた。彼女によると耳は普段髪の中に隠しているのだそうだが、驚いたり気
が緩んだ時などにはひょっこり出てしまうらしい。ロングスカートを好んで履くのも、
どうやら尻尾を目立たなくする為のようだった。
何故そのようなものが付いているのか、ケインは未だアリアに訊いていない。彼
女を知る人たちも特に話題にする様子もないし、必要とあればアリアの方から話
すだろう。ケインもそのことで特にアリアを特別視したり差別することはなかった。
「……ふに……」
気が付くと、アリアは火をかけたままこくこくと居眠りを始めていた。それをよそに
薬缶が蒸気を吐き続ける。
「おいおい」
呆れてケインは火を止めた。そこでようやくアリアが目を開ける。
「あ……すみません〜……」
彼女がサイフォンをセットするのを確認すると、ケインは少し苦笑してその場から
離れた。この店は夜にはバーとしても営業しているので、アリアが朝が苦手でも
仕方のないことと言える。それにしては弱すぎる気もしなくはないが。
こぽこぽというサイフォンの音とコーヒーの香りが涼やかな空気に染みてゆく。
どこまでもゆったりとして、平穏な時間。それは、殺し屋として常に緊張の中に身
を置いていたケインにとって、長らく触れたことのないひとときであった。
カウンターに腰掛けぼんやりと天井を仰ぐケインだったが、ふとアリアがまだ寝
ぼけながらもにこやかに見つめているのに気付いて、視線を水平に戻した。
「?」
「いいですよね〜、こういうの……」
「そうか?」
「はい〜」
何が嬉しいのか分からないが、アリアは口許を緩めてにこ〜っとケインに笑いか
けた。
「しかし分からんな」
対するケインは怪訝そうに眉をしかめた。
「何故オレなんかに用心棒を頼むんだ?ただの通りすがりの客だというのに」
そのはこの数日間幾度となく口にした疑問だった。どう考えても納得がいかない。
この店が強盗に襲われた時たまたま居合わせて危機を救ったというだけなのに、
見ず知らずの男に簡単に同居を許すなど不用心極まりないことだった。だからと
言ってアリアが見境なく男を誘うような性格なのかといえば、そのようなことは全く
ない。むしろ古風で貞淑な雰囲気さえ漂わせている女性である。それだけに、こ
うもあっさりとケインを信じてしまうのが理解できなかった。
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