第3話 Smile for me


 朝起きると体術の練習。それが、老師の下で殺しの訓練をするケインの日課
だった。まだ冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、徐々に身体を慣らすよう
に動きを早めてゆく。そうすることで全身が活性化され、気分まで清々しくなる
のを実感できた。
 母星の東洋武術を基にしたという独特の体術の型を一通り終えうっすらと汗
をかいた頃、いつものように老師が顔を覗かせた。
「おはようございます」
酸素マスクを口にあてがっていたケインは、慌てて居住まいを正すと自分の師
に挨拶をした。
「うむ」
老師は言葉少なにただ頷く。仙人を思わせる長い白髭を生やした師匠は、もう
八十歳近いはずなのに少しも衰えた素振りを見せなかった。その身軽な体躯
で常にケインの先手を取ってゆく。かつて並ぶ者なしと謳われた、伝説の殺し
屋。それがこの老人だった。孤高を好み、正体は一切不明と言われたこの人
物が何故ケインにその技を教えているのかは誰も分からない。ただ、まるで自
分の分身を残そうとしているかのように、老師はその殺しの技術の全てをケイ
ンに叩き込んでいった。 
「いつになく型が綺麗に決まっていたな」
「そうでしょうか?」
珍しい誉め言葉に、まだ少年のあどけなさを残すケインは思わず聞き返した。
「お前の身体に技が染み込んでいる証しだな」
「あ、ありがとうございます」
とっさにケインは恐縮した。
「さて、朝飯にするか」
「はい!」
老師に先だって、ケインは厨房への道を進んだ。朝食の準備はケインの仕事
である。彼の作る慣れない粗末な料理にも、老人は文句一つ言うことがなか
った。
「一つ質問があります」
歩みを止めないまま、ケインが問いかけた。
「何だ」
背中に老師の重い声が響く。
「師匠は私の作る料理をいつも食べて下さいますが、何か不満はないのでし
ょうか?その、けして美味とは思えないのですが」
「そんなことはないぞ。なかなかの腕だ」
「そうでしょうか……」
我が師の言葉が信じられず振り返るケインだったが、そこにいたのは屈強の
老人ではなかった。ゆったりめのロングスカートにエプロンをつけた若き女性
   アリアが猫のような耳をぱたぱたさせながら優しく微笑んでいた。
「だって、私はケインさんのこと信じていますから」
「!」

 目覚めは最悪だった。朝から何という夢を見たのかとうんざりしてしまう。
 よくよく考えてみればおかしな話だった。老師の食事の準備は確かにケイ
ンの仕事だったが、そのことで誉められたことは一度もないはずだった。そ
れどころか、厳格だったあの老人から優しい言葉をかけてもらったことなど、
ただの一回もなかった。日々苦しい訓練の連続、その中で殺し屋としての技
術と勘を徹底的に教え込まれた。条件反射だけで身体が反応する程に。
 だがそれも昔の話だ。ケインが初めて人を殺したのが十一歳の時。その
後老師の下で十代は過ぎていったが、老人の死を境にケインは殺し屋とし
て独立し、既に修行時代は遠い過去になっていた。
 アリアから聞いた話がよほど衝撃的だったのだろう。だからあんな夢を見
たのだとケインは内心苦笑した。それはそうだ。彼女が三〇〇年もあの姿
で生き続けているなど、そう簡単に信じられるはずがない。普通に考えれば
悪質な冗談としか思えない話だ。
「それでも……」
いつものように店のカウンターに座って朝食を噛みながら、ケインはぽつり
と呟いた。こんな夢でも、いつも彼を苛む悪夢に比べればまだましだった。
けして消えることのない原罪。それが見せるおぞましい夢は、ケインをどこ
までも過去に縛り続けていた。その呪縛から逃れるべくこうして殺し屋をや
めたにもかかわらず、悪夢は未だ彼を解放してくれそうになかった。
『わたしを…………して……』
夜毎襲う絶望に染まった囁きが耳の中でリフレインしかけて、ケインはそれ
を追い払おうと軽く頭を振った。

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