ファンタジック ラプソディ


第1話 異界へようこそ

 大体何が悲しくてこんな目にあわなきゃならないんだ。彼女にはデートをすっぽかされる
し、突然の雨で車にドロをかけられ大事なジャケットは汚れるし、あげくに財布を落として
一文無しの有様……。
 冗談じゃないよ、全く、と島原高雄(しまばら たかお)は心底彼女に恨み言の一つも言
ってやりたいと欲した。が、電話をしたくともテレホンカードはおろか十円玉すらないのだ。
帰りの電車賃もなくとぼとぼと帰り道を歩く島原は、ヒサンのキョクチであった。
 次第に腹が減ってきた。しかしアパートまで戻らねば金はない。今の自分は買い食い一
つできないのかと思うと、ますます惨めな気分になった。全ては彼女が約束の時間に来な
いからだ、と島原は一切の責任を彼女に押しつけた。そうしなければ怒りがこみ上げてき
て自分自身おさまりがつかないからだ。
 憎らしい雨は小一時間で止み、汚れたジャケットを肩にかけて島原がようやくアパートに
戻った頃には、梅雨空からうっすらと陽が差していた。部屋着に着替えると冷蔵庫から缶
ビールを取り出して一気にあおる。続けて非常食用に買い置きしていたカップラーメンを食
べると、ようやく気分が落ち着いてきた。再び彼女のことを考えだす。
 もともとどこかトロい女性であった。天然ボケという言葉が似合う、のんびりとした調子の
およそ現代の女性像からかけ離れたタイプだった。まぁそこが気に入って交際を申し込ん
だのだが、一年近く付き合っていると色々と欠点も見えてくるもので、このトロさが何となく
鬱陶しく感じるようにもなっていた。
「どーせケロッと忘れていたんだろうよ」
島原はそう愚痴って彼女に電話をしようと思い受話器に手を伸ばしたが、どうにも文句しか
出てきそうにないのでやめた。意味もなく部屋を見回し、次いでごろんと横になる。アルコ
ールが回ってきて身体が熱くなりだしていた。ぼんやりと天井を見上げると、古びたアパー
トなのであちこちにシミがあった。壁もどこか汚れていて、部屋を照らす電灯も何となくくす
んで見えた。苦学生を自認する島原にとっては、家賃の安さだけがこの部屋の利点であ
った。
 西陽が窓から射し込み、今日の終わりを告げていた。無駄な一日だった、と島原はささ
くれだった気分で思った。毎日が日曜日のような大学生活を送っている島原にとっては休
日をこのように潰したとてさしたる事でもなかったが、それでも簡単に割り切れるものでは
ない。
 突然電話が鳴った。受話器を取ると、のんびりとした口調の女性の声が耳に届いた。
「あゆさん?」
島原は彼女のことをそう呼んでいた。同年齢であっても呼び捨てにしないのは、彼女にど
こか敬称で呼ばせるべき雰囲気があったからだった。
「ごめんなさい。つい今晩の料理のことに夢中になっていたもので……」
これだもんな、と島原は呆れた。一つのことに夢中になると、他のことをけろりと忘れてし
まうのだ。
「お詫びと言ってはなんですけど、夕食をご一緒しません?今日は朝から仕込みをしてい
たので、美味しく出来上がっていると思うんですけど……」
ィィィィィィィ……
「?」
彼女の声に被るように耳鳴りがしている感じがして、島原は軽く頭を振ってみた。
「ああ、いいよ。けど何の仕込みをしてたのさ?」
キィィィィィィィィィィィ……
次第にその音が大きくなっていた。どうも耳鳴りではない。外から聞こえるようである。
「それは……」
キィィィィ〜〜〜〜〜ン
「なんだ?」
騒音レベルに達したその音に、電話の声がかき消されていた。島原はとっさにあたりを
見回した。まるでジャンボジェットが近付いてくるような、そんな感覚だった。が、この付
近は航空路ではない。第一、飛行機が市街地をこんな低空で飛ぶはずがなかった。飛
ぶとしたら……
「つ、墜落か……?」
次の瞬間、浮き上がるような衝撃と共に意識が真っ白になった。島原が最期に思ったの
は、やっぱり今日はツイてなかった、という愚痴であった。
「もしもし、あの〜、聞こえています?」
受話器の向こうで、彼女の声だけが平穏を保っていた。
 七十階のビルの中層部に旅客機が激突した。ここは二十一世紀も数十年を経た東京。
今、島原高雄は現世から完全に存在を断った。

  『完』



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