雪明かり仄かに
白い滑らかな指が、視界の先でくっきりと彼方を指した。
「ほら、あの辺じゃない?」
自分が示した方角を見つめる彼女の瞳は、降り注ぐ光を受けてきらきらと輝き揺れ
ていた。
「何が?」
「あなたの新しいアパートよ。大体あの辺りよね」
「どーかな。越してきたばかりでまだこの街の地理がよく解らないんだ」
彼はどこかそっけなく答えた。彼女はそんな彼の口調には拘泥せず、
「絶対そうよ。ほら、あのビルがコンビニのある建物でしょ。そのちょっと先がアパー
トのはずだから……」
どこまでも一心に街並みの一角へ視線を集中させていた。
「さすが地元の人は詳しいね」
「あら。あたしだってここに住んでまだ三年よ。まだまだ詳しくはないわ」
「それでも俺より遙かに詳しいさ。なんたって越してきてまだ五日だからね」
「じきに覚えるわよ、きっと」
そう言うと、ようやく彼女は身を乗り出していた手すりからすとんと地上に降り立っ
た。並んで立つと、彼女が意外と小さいのが解る。けれどもその身体からは、弾む
ような元気良さが溢れているのだった。
片田舎の地方都市。そこで彼は新しい生活を始めようとしていた。街を見下ろす
高台の公園で肩を並べる彼女とも、出会ってまだ数日しかたっていなかった。期
待と不安がないまぜになった感情を抱いたまま、半ば強引な彼女のペースに引き
込まれながらも、彼は新たな人間関係と自分を取り巻く環境に心地よさを見出し
始めていた。
「ね、一つ訊いていい?」
改めて彼に視線を向けた彼女は、肩のあたりまで伸びた髪をなびかせながら、そ
の純真な瞳のきらめきと共に澄んだ声を投げかけた。
「何?」
「どうしてこの街に来ようと思ったの?」
「う〜ん、はっきりした理由はないな。ただ、俺のいた田舎は好きじゃなかったし、
かといって東京に行くのも怖い気がしたし、この位の街のほうが何となくいいかな
って思えた、それだけのことかもしれない」
「ふぅん……でも、悪いとこじゃないよ、ここは。きっとあなたも気に入るんじゃない
かな」
「だといいけどね」
「きっとそうよ。だって、あたしが好きな街だもの」
「………」
彼には、そう断言できる彼女がどことなくうらやましかった。この陽射しのように暖
かく、どこまでも純粋な、少女のような女性だと彼は思った。
彼女がそう言うのならば、そうかもしれない……彼はふとそう信じてみたくなった。
職を転々としながら、どこか逃げ出すような気持ちでこの地へ流れ着いたが、 も
しかすると自分が心休める場所は案外この街なのかもしれないと感じられた。
空はどこまでも晴れ渡っていた。その透き通るような青さの中に、彼は懐かしい
ような穏やかさを見出していた。季節は春、もうじき桜の咲く頃であった。
列車は北へ北へと駆けていた。
白い滑らかな指がそろそろと探るように揺れていたかと思うと、ふいに手首から
跳ね上がる動きを見せた。次の瞬間、その手に握られた小さな紙製の網の上で
金魚が踊り、もう一方の手で支えられていた椀に吸い込まれていった。
「やったぁ」
「お見事!」
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