滄溟遙か



                      一

 ローカル列車を降りると、夏の空気が彼を包んだ。見回せば、ホームには親
子連れやカップルが思い思いに行き交っていた。彼はその人混みを泳ぐように
通り抜けると、こぢんまりとした改札へ向かった。
 古びた駅舎を出ると強い陽射しが真上から照りつけた。白色光の輝きに目を
細めながら、彼はすぐに近くの公衆電話へと駆け寄った。受話器を取るや、か
け慣れた番号を指が自然に押す。しばしの待ち時間の間に、彼は何気なくあた
りへ視線を巡らせた。客がすっかり吐き出された駅の出入口はたちまち閑散と
し、駅前に停車しているタクシーの運転手は暇を持て余して昼寝に勤しんでい
た。この近辺では珍しくもない、長閑な田舎の風景だ。そんな中、駅舎の屋根
が作る陰の下で高校生くらいの男女が深刻そうな様子で立ちつくしていた。少
年のほうはどこか罰が悪そうに眉をしかめ、視線を横目に逸らしている。そし
て後ろ姿ではあったが、少女の肩先が震えているのが分かった。泣いている?
そう見えた。ケンカだろうか、別れ話だろうか……いずれにしても、海水浴シー
ズン真っ盛りの海辺の駅には似つかわしくない光景だ、と彼は思った。
「……あ、健一か。俺だ」
電話が繋がったので、彼は意識を受話器に戻した。
「今到着した。こっちは暑いよ。海でひと泳ぎしたくなるな、こりゃ」
その軽口に電話の向こうで、
「おいおい、遊びじゃないんだから、ちゃんと仕事してくれよ。交通費だってバ
カにならないんだからな」
健一と呼ばれた青年が不機嫌そうに言った。その声の調子から、クーラーの
ない事務所でうだっている様子が容易に想像できて、彼、小川史郎(おがわ
 しろう)は思わず苦笑した。
「分かってるって。とりあえず聞き込みで足取りを追ってみるよ。それじゃ」
史郎は電話を切ると、さほど中身の詰まっていない旅行カバンを肩に担いだ。
ふと目をやると、先程の少年少女の姿はもうなかった。どうしたのかな、と思
いつつ史郎は輻射熱でジリジリする路上を歩き出した。
 路行く人々の瞳はどこか虚ろに見えた。日傘をさしている婦人もいたが、
あまり役には立っていない様子で暑さに顔をしかめている。日陰に座り込む
老人も、気温の高さだけでうんざりしているようだった。僅か数分日向にいる
だけで、半袖から伸びる腕にはたちまち玉の汗がじわじわと浮かんだ。
 重そうなカバンを手に汗を拭きながら歩く営業マンらしき男とすれ違い、自
分も仕事でこの真夏日の炎天下をうろついているはずなのに、仕事中とい
う意識がどこか薄いことに史郎は改めて気付いた。それというのも、探偵と
いう職業が彼にとって趣味の延長上にあるどこか曖昧な仕事だからなのか
もしれない。そう思えなくもなかった。
 片田舎の駅前商店街はスピーカーからハワイアンを流して海水浴場の賑
わいを演出していたが、その雰囲気はどこか古臭くも感じられた。小さな店
が軒を連ねる中、史郎は開放的な装いを見せる土産屋に入ると、店員に一
枚の写真を示して、
「済みません、こういう女の子を見かけませんでしたか?」
と尋ねた。店員の婦人は一寸怪訝な顔をして、首を僅かに傾げた。
「……さあ、見なかったけど」
「そうですか、ありがとうございます」
史郎は頭を下げると店を出た。引き続き何軒かの店をあたったが、返ってく
る答えは皆同じであった。
「やっぱりそう簡単には見つからないよな」
史郎は溜め息と共に写真を見つめた。そこには制服姿の高校生らしき少女
が、カメラに向かってどこかおどけるように笑っていた。セミロングの髪を揺
らし、利発そうな瞳を細めて、化粧っ気のない唇を綻ばせながら手を振って
いる。どこにでもいそうな、朴訥とした少女だった。

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