「ん、何か言った?」
不思議そうに尋ねる藤里に、史郎はただ笑って首を横に振った。
背中を押すように風が吹いた。その勢いに手助けされながら、二人は坂の頂
へと辿り着いた。快晴の夏の空の下、蒼い海はどこまでも果てなく続いていた。
沖を行く船が小さく彼方にあり、それが滄溟の遙かな広がりをより際だたせて
いるように見えた。
「やっぱりここからの景色がこの町で一番好きかな」
水平線を眺めながらそう言う藤里の姿は、どこか清々しくもあった。悲しみや迷
いを振り払ったその瞳は力強く、透き通った美しささえ湛えていると感じられた。
都会のビルに区切られた狭い空から脱し、自然の広大さの中で心を解放した
ことが、少女を一層輝かせているのかもしれない。この町へ来たことはけして
無駄ではなかった。藤里にとっても、そして自分にとっても。史郎はそう思った。
高台を渡る風が疲れと汗を拭ってくれた頃、ずっと海を見つめていた藤里が
史郎へと向き直った。
「さてと、家出少女はもうおしまいね。あたしこと藤里和美は、優等生でもなんで
もないフツ〜の高校生に戻ります!」
高らかにそう宣言するその表情は、どこまでも晴れやかであった。
「さあ、帰ろ、小川さん」
史郎の前を、髪をなびかせて少女が横切っていった。それはもう、自分を見失
った悩める女の子でも、青年の心に潜む幻の理想像でもなかった。その姿を、
史郎は眩しげなまなざしで見送った。
「もぉ、何やってんの。置いてっちゃうわよ」
「はいはい」
少女に促されて、史郎は苦笑気味に返事をしながら荷物を抱え直した。風を切
って一人すたすたと坂を下りつつ、
「ホント、オジさんなんだから。でも、ファンにはなれるかもね」
そう呟いて笑う少女の真意は、史郎にはもう窺い知ることはできなかった。
完
(1996.9.15 著)
(2004.8.27 大幅加筆修正)
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