「彼ね、真面目すぎる女の子は嫌いだって。もう少し軽い感じの子が好みなん
だってさ。あたしって、よほどガリ勉タイプに見られてたみたい。彼にそう言わ
れて、あたし自分自身が分からなくなっちゃった。今までのあたしは、周りから
良く見られたいだけの自分だった。じゃあ、ホントのあたしって何なんだろう、
何が一番自分らしい自分なんだろうって、なんかもう全然分からなくなっちゃ
った……」
そこまで一気に喋って、藤里の肩が震えだしたのが夜目にも見てとれた。慰
めの言葉を見つけられず、史郎はただ俯くしかなかった。
「あたし、フラれちゃったよ……」
低い嗚咽が夜の闇に溶けた。少女の背中がやけに小さく見えて、悲しみをそ
の身に背負うには、あまりにもか細く感じられた。
薄身の三日月をかすめて、淡い雲がゆるゆると流れていった。月が再び灰
色の全身を見せた頃、押し殺したすすり泣きがすっと止んだ。少女の足が二、
三歩進んで、ぽつりと立つ街灯の下まで来ると、藤里はゆっくりと振り返った。
「ありがとう、話聞いてくれて。愚痴はここまで。もう、大丈夫だから……」
弱々しい明かりに照らし出された藤里の表情は、泣き腫らしているもののさ
っぱりとしていた。
「この星空を見ていたら、何だか心が落ち着いてきちゃった。今日一日だけ
でも、あたしの知らない世界がまだまだいっぱいあるって分かったんだもの。
今まで知らなかった男の人だって、いっぱいいるはずよ。だったらくよくよし
てるヒマなんてない!もっともっと色んなところへ行って、色んな人と知り会え
ばいいだけのことよ。ね、そうでしょ?」
「ああ、そうだと思うよ」
それは少女の精一杯の強がりかもしれない。それでも史郎は少女の克己心
に感心した。しかし、この理屈を持ち出して自分を納得させてしまえる少女の
聡明さは、ある意味不幸なのではないかとも思いついていた。感情を理論で
押さえるのは、大人の持つ狡猾さに通じるものがあると感じられたからだ。も
っと自分の感情に素直であること、それが少女の求める本当の自分らしさで
はあるまいか、と。だが、それとて大人の勝手な理屈に当てはめた捉え方な
のかもしれない。史郎には何が良い在り方なのか判然としなかった。分かっ
ているのは、少女は自らの力で救いを見出したということ。それだけは何に
も増して尊いと思った。
その時になって、ようやく史郎は気付いた。昨日この町に降り立った時、駅
舎の陰で肩を震わせて泣いていた少女こそ藤里であったと……。
五
翌朝、帰りがけに藤里は海が見たいと切望した。
「少しでいいから、あの海の見える高台にもう一度行きたいの」
その少女の言葉で、史郎は二人分の荷物を担いで長い坂道を登る羽目とな
った。
まだ午前とはいえ、早くも気温は上昇していた。夕べは気の早い鈴虫の鳴
き声に心地よさを覚えながら熟睡したというのに、今はこれが最後とばかり
にセミの大合唱があたりを埋め尽くしていた。額や腕に汗を浮かべて傾斜
の急な道を進む史郎には、そのざわめきがやや耳障りであった。機械的に
足を動かしているうちに、まだ眠気の取れない意識で彼はふとさっき旅館を
出る時のことを思い出していた。
「またいらして下さいね」
そう言って玄関の前で深々と頭を下げ、史郎の姿が見えなくなるまで見送っ
てくれた女将の姿が印象に残った。いつも笑顔を絶やさない、終始爽やかな
人であった。同じ年をとるなら、願わくばこの人のように在りたいと史郎は思
う。どうなのだろう?自分は、幼き日に夢想し憧れた大人、少女の言葉を借
りるなら裡なる“本当の自分”というものに少しでも近づけているんだろうか。
……分からないよな。内心そう呟いて苦笑する。それが分かるのは、きっと
自分が最期の時を迎える瞬間なのだろう。
少し前を行く藤里は、鼻歌まじりに坂のてっぺんをひたすら目指していた。
その後ろ姿がちらと振り返る。息が上がりだしていた史郎は、そこにかつて
の同級生が立っている想いがして、一瞬呼吸を止めた。
「大丈夫、小川君は今も小川君だよ。そしてこれからも」
あの日の藤里和美が今の史郎に微笑みかけ、そして消えていった。それは
夏の陽炎が見せた幻だろうか。目をこらした時には、眼前の少女は朴訥な
家出高校生に戻っていた。
「感傷、だな」
自嘲気味に史郎は小さく呟いた。全ては青春の幻影にすぎない。そして今、
史郎はその懐かしき幻に心の中で訣別の言葉を投げかけていた。
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