それでも彼は静の体調を気遣って付け加えた。
「けれども、やはり読むのは良くなってからですよ」
「もう大丈夫ですって……」
そう言い張る静に、彼はふいに手を伸ばした。その額に軽く触れてみる。少し
汗ばんでいたが、柔らかな肌の感触が彼に女性を感じさせた。微熱がゆっく
りと掌に伝わってきた。
「ほら、まだ少し熱があるじゃないですか」
「あ……」
彼の言葉に、静はことさら恥ずかしい様子を見せた。頬が余計上気し、瞳が
伏せ目がちになってしまう。
「そんな……これは熱ではありません」
「……?」
彼には静の主張が理解できなかった。
「もう、先生の意地悪!」
そう言って布団で顔を隠してしまう静に、この感性の違いが男女の差なのだ
ろうかと想像するしかない彼であった。
帰り際、病院の玄関から見えた山並みには、真っ白い雲がどこまでも高く
湧き立っていた。その遙か上方を見上げて、彼は静の体調を案じながらも
新作の結末の構想を練りだしていた。頭の中で文章を組み立てつつ緩やか
な坂道をのんびりとした歩調で下っていると、やがて湖が視界を大きく占め
だした。湖面は夏の陽光を反射してきらきらと照り映え、そのどこまでも平穏
な風景に、彼は自分もその一部と化したかのような安息を覚えた。現実から
遊離したゆったりとした時間の流れと世界の在りように、いつしか自分も作
品世界の住人になったのではないかと思えてきた。してみると、そう感じら
れるのは他ならぬ静の影響が大きいからであり、彼女の存在なしには新作
の執筆もこの平和な心持ちもありえなかったのだと気付く。いつの間にか、
天使のようなあの少女はひっそりと彼の心に忍び込み、幻想と現実を取り
替えていったのだと彼には思われた。これは全く不思議な出会いであった。
避暑地での小さな邂逅にどのような意味があるのか、それはまだ解らない。
ただ、この偶然が自分にとり僥倖であったことは確かだと、掌に少女の柔
らかな温もりを思い出しながら彼は信じてみたくなった。
夏は盛りを通り越し、早くも次の季節への準備を始めていた。朝夕の空
気にひんやりとした涼風が入り込み、開け放したホテルの窓から彼を撫で
つけるようになった。執筆のペースもあがり、いよいよ結末が見えだしてい
た。これはこの夏中に新作を静に披露できるぞと彼がほくそ笑んでいると、
ある日自宅の留守番役の友人から手紙が届いた。それは友人の主催す
る雑誌の編集が追い込みに入ってきたので、彼にも手伝ってほしいという
ものであった。彼の新作もその雑誌に掲載する予定であり、校正まで見届
けるつもりであったので、彼は友人の依頼を承諾せざるをえなかった。下
書きをラストまで一気に書き上げると、彼は原稿の山をトランクに詰め込
んだ。仕上げは自宅に戻ってからにしようと決め込んで、彼はこの地での
唯一の心残りである静をドライブに誘おうと思い立っていた。
事実を静に告げるのは彼としても辛かった。できれば病気が完全に回
復するまで付き添ってあげたかった。日課のようにサナトリウムに通い続
けるうちに、彼の中にも静に対し身内に似た感情が生まれつつあったの
だろう。それが同情なのか憐憫なのか、はたまたもっと違う感情なのか、
彼にも判然としなかった。ただ彼女には元気になってほしい、それだけが
願いであった。
「そう……ですの……」
この地を去ることを話した時の静の表情は、想像以上に悲しみに満ちて
いた。彼が新作を掲載する雑誌を送ることを約束しても、その瞳は伏せ
られたままだった。かける言葉を失いつつも、困惑と憂慮の末に彼は、
「仕事が片付いたら、また来ますよ」
と言っていた。
「本当ですの?」
ようやく静が顔を上げた。
「ええ」
先のことなど未定なのだが、それでも彼は頷いていた。
もどる すすむ