「……恋人、には見えないのかしら」
そう静が囁くように言うのを、彼は確かに聞いた。やや驚いて静を見ると、自分
が発した言葉に恥じ入って耳の先まで赤くなって俯いていた。その様子が何とも
微笑ましくて、彼は少女を実に可愛らしいと実感した。
車は一時間走り続けて、白樺林の中の開けた高台に辿り着いた。あたりは森
閑として、人気はまるでなかった。車を降りると、澄み切った空気が身体を包ん
だ。少し肌寒い位の気温に、意識までもが冴え渡ってゆく気がした。
「じゃあ、帰りも頼むよ」
彼がそう言うと、車は走り去っていった。彼はあたりを見回すと、
「あっちが眺めが良さそうですよ」
と静を先導した。静は頷くと黙って付き従う様子を見せたが、どこか頼りなげに
歩く姿が心配になり、彼はその手をそっと取った。静は恥ずかしそうにやや顔
を伏せながらも、口許に幸福そうな微笑を浮かべて彼の手を握り返した。そう
してまるで世界に二人しかいないかのように、ひっそりと寄り添いながら彼と静
は歩き続けた。だがそれは、彼にとって妹を案ずる兄の心境に近いと言えた。
見上げると、空はいつもより淡い青さで雲一つなく頭上に広がっていた。その
透明感は、すぐ手が届きそうに見えながらも深く遙か彼方にありそうな天上の
楽園を想像させた。彼がその向こうに吸い込まれそうな気分を味わっていると、
「あら、きれいな花……」
静はまるで違う方を見ていたらしく、路傍に咲く小さな花の一群れを見つけだし
ていた。それは薄い紫を滲ませながら、そこここに点在していた。ひっそりと、
だがしっかりとその生を主張する花の姿に、彼は自然の持つ生命の神秘を見
た想いがした。こんな高原で、風雪に耐えて短い夏の間咲き誇ろうとするこの
か弱き生命が、どこか力強さを持つ存在に感じられた。秋になれば確実にそ
の種子を残して散ってゆくはずなのに……。彼の意識の中で、何かがちらつ
いていた。それは詩のようなイメージの羅列であったが、まだはっきりとした言
葉にはなってくれなかった。
やがで遠くまで臨める林の切れ間に出た。白い幹の列が途切れ、遙かに続
く蒼穹とその眼下にどこまでも連なる山々が雄大な光景を展開していた。晴れ
た日には遠く海が見えると聞いていたが、夏の空気ではその方角を凝視して
もぼんやりと白く霞むだけであった。それでもその広大な風景は、世界の果て
しなさを思わせる圧倒さをもって二人の眼前に現として存在した。二人は思わ
ず息を飲み、言葉を失って見とれた。それはまさに、自然の大きさとそれに対
する人間の小ささへの、畏怖と感動と心許なさの混じった感慨をもたらしてくれ
る景色であった。
「先生、あすこ……」
静が指さした方に、ぽつりと小さく、本当にちっぽけな具合に湖が認められた。
自分達はあんな所で、まるでそこが世界の全てのような感覚で暮らしている。
そして人々もまた、そこで同じ様に泣き笑い、精一杯今日を送っている。けれ
どもこの広がりは何だ?人間達はほんのごく一部の空間を、王様気取りで支
配し奪い合っているけれども、実は何も知らないで人生の大半を過ごし、我が
物顔でそれが世界だと言い張っているにすぎないのではないか。それが正し
い認識なのかどうかは解らないが、少なくとも彼にはそう思えた。
けれども、これとて世界のまだごく一部に過ぎないはずなのだ。遠く海の先
には、アメリカやソ連、列強と言われる国々が数多く存在する。それらを相手
に、この小さな島国は支配を拡大しようとしている。その大きさを知らぬまま
に……まだ見ぬ世界の果てを想起しながら、彼の感覚もいつしか天井知ら
ずに肥大していった。
だが、傍らの少女を忘れ去っていた罰か、突如として静がよろめいた。力
なくその場に崩れ落ちようとする。
「……!」
彼は慌てて静を抱き留めた。その肩の細さと柔らかさ、そして重さを感じさせ
ない身体に、彼は改めて静が女性であることを意識した。
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