「覚えている?」
彼女は遠くを見つめたまま、口を開いた。
「ここ、あなたがこの街へ越してきて間もない頃に、二人で来た高台……なんか
もうずっと昔のことのような気がするけど、まだ一年もたっていないのよね」
「ああ」
彼は曖昧に頷いた。
「あの頃に比べてあたし達、ずいぶんと変わってしまった感じがするけど……あ
なたはどう?」
「ん……どうかな……」
彼の虚ろな返事に、彼女はふうと溜め息をもらした。
「そう……あなたは変わらないまま。変わってしまったのは、きっとあたしの方な
のよね。そして知らず知らずのうちにあなたにも変化を求めていた……だからな
のよね」
「何の話?」
ぽつりと吐いた彼の疑問符に、彼女は今にも雪が降りてきそうな空へ目をやっ
て言葉を続けた。
「あたしもね、このままでもいいかなって思ってた時期があったの。互いにはっき
り口にしないけど、心がどこかで通じている、そんな関係もあるんじゃないかって
……あなたがそれを望むなら、それでもいいんじゃないかと思った。でもね……」
「………」
「やっぱり、言葉にして確認しないと不安になるの。人って、そんなに便利じゃな
いから、お互いの気持ちは口にしないと解らないものなのよ……」
そこまで言って、彼女はもう空を見上げ続けることができなくなって俯いた。
「どこまでもあなたと同じ夢を見れるって思ってた……そう信じていたかった……
けど……」
「………」
彼は何も言えないまま、彼女の震える声の続きを待った。
「もう、無理みたい……あたしは、このままで居続けることはできそうもない」
その独白は、彼にとって遠い木霊のように現実味がなかった。まるで悪い夢の続
きを見ているような感覚だった。実感を失ったまま、彼はただその場に立ち尽くす
しかなかった。
「ごめんなさい……もう、終わりにしましょう」
「……ああ」
彼は無意識に応えていた。自分でも何故そこで肯定してしまうのか、どうしてもっ
と違う言葉を言えないのか解らなかった。ただ非現実感だけが増してきて、今の
彼は彼女の言葉をそのまま受け入れることしかできなかった。
「でも、楽しかった……あなたとの一年、とてもいい想い出になったと思う。だか
ら、いい想い出のままさよならしたいの……」
「そう、だね……」
「それじゃ……」
「ああ……」
最後に彼女は握っていた白い滑らかな指を僅かに開き、その手を軽く振って少
しだけ微笑んでくれた。けれどもその顔は泣き出すのを堪えるのに精一杯で、い
かにも辛そうだった。そして哀しみを滲ませた微笑を残したまま、彼女は静かに
背を向けて歩きだした。その姿が小さくなってゆくのを、彼は自分の視界がぼや
けてゆくのも気付かないまま見送った。
暮れかかった空から、いつしか雪が降り始めていた。濡れた彼の頬に、冷た
い粒子がそっと触れて溶けていった。やがて彼の肩も髪も、無慈悲な雪が白く
覆い隠した。周囲の景色と共に彼の哀しみも凍りつかせるかのように……。春
遠い冬、想いは凍土深く永遠に閉じこめられた。
列車は北へ北へと……
「………」
ぼんやりとした視界がやがて焦点を合わせると、そこには誰も座っていない列
車の座席があった。軽く目をこすり、未だどこか虚ろなままゆっくりとあたりを見
回す。車内に乗客は少なく、四人掛けのこの座席も彼一人だった。斜め向かい
の席では、親子連れがもたれかかったまま午後の昼寝に頭を傾(かし)いでい
た。
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