そう口にしてみて、史郎は今まで少女の名を呼ぶことを無意識に避けていたと
気がついた。彼にとってその名前は特別な意味を持つからなのだろうか。はた
また裡なる幻想と実在の少女とを混同するのを恐れてのことか。史郎にもその
理由は判然としなかった。
 藤里はすぐ電話口に出た。突然の電話に驚く様子もなく、受話器を通して澄
んだ声が伝わってくる。史郎が用件を話すと、少女は実にあっさりと快諾した。
「うん、いいよ〜」
「それじゃあ……」
リズム良く待ち合わせの場所と時間を決めていると、何やらちょっとしたデート
気分になってくる。それが我ながらおかしかった。短いやりとりを終えて電話を
切ると、史郎は少し離れて成り行きを見ていた女将に指でOKマークを作って
みせた。その行為自体がうかれていることを端的に示していて、後になってか
ら史郎は自分のお調子者ぶりに呆れることとなった。

 山の向こうに陽が落ちると、風は心地よい涼しさを運んできた。昼間の熱気
が嘘のような空気に、早くも秋の気配を感じなくもなかった。車の騒音が途絶
えた路上には、代わって虫の音があちこちから響いた。
 古めかしい町並みが続く通りの中央に、現代的なデザインの公民館が大き
く鎮座していた。黄昏が濃くなるにつれて、そこを目指してぽつりぽつりと人が
集まりだす。公民館前の駐車場兼広場にはやぐらが組まれ、その周囲には
屋台もちらほらと並んでいた。やぐらの頭頂部に取り付けられたスピーカーか
らは盆踊りの音頭が流れ、夏祭りの雰囲気を醸し出していた。
 地元の子供達が次々と姿を見せる中、広場の端に史郎と藤里が佇んでい
た。史郎は旅館の女将からもらったうちわを優雅に扇ぎ、藤里は彼の背中に
やや隠れるようにしながらやぐらを見つめていた。
「でもさ、あたし、場違いじゃないかな?」
少し不安そうに、藤里が呟く。
「どうして?」
「だって地元の子じゃないし」
「関係ないさ。お祭りなんて、楽しんだ者勝ちだよ。それに……」
史郎は少女を見やって、口許を綻ばせた。
「浴衣も着てるし、地元の子供達と区別なんかつかないよ」
「そ、そっかな〜」
紺の生地に朝顔の模様が栄える浴衣姿を見回して、藤里はぎこちない笑み
を作った。
「うんうん。似合ってるって」
対する史郎はやけに満足顔だった。それもそのはず、その浴衣は史郎がポ
ケットマネーでプレゼントしたものだった。祭りと言えば浴衣、その単純な理
由からの衝動買いである。しかし、予算が底をついて自分のぶんを買えなか
ったのが肩手落ちであった。
「そっか……うん、そうだよね」
史郎に誉められて、すぐさま藤里は持ち前の明るさを取り戻した。史郎の前
に回ると、くるりと一回転してみせる。浴衣を着ていることの嬉しさが今更に
こみ上げてきたのだろう。
「えへへ。あたし、実は今のサイズに合う浴衣持ってなかったの。ありがとう
ね」
精一杯の感謝を込めながら、藤里が笑顔を見せた。その眩しさに、史郎は
照れて軽く鼻の頭をかいた。
 夕陽の残照も消え夜の帳が完全にあたりを包むと、盆踊りが始まった。
町内会長らしき老人の挨拶が長々と続き、次いで何人かの短いコメントが
終わると、人々はやぐらを中心に踊りだした。地域による多少の差はある
ものの、踊りの振り付けは史郎達の地元のものとそう変わりなかった。は
じめは遠巻きにただ見物していた藤里だったが、史郎がその背中をぽんと
押した。
「小川さんっ!」
「いいから、踊っておいで」
にっと笑う史郎の薦めに、少女はややおずおずと踊りの輪の中に混ざって
いった。最初ぎこちなかった藤里の踊りも、前後の少女や老人に振り付け
を教わっていくうちに、次第に周囲へ溶け込んでゆくのが見てとれた。ほど
なく周りの年輩達とも笑顔で打ち解けあう様子に、彼女の素直な人柄が良
く分かると史郎は思った。

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