健一が差し出した契約書に一通り記入を終えると、婦人はもはやここには用
がないとばかりに、そそくさと席を立った。
「それでは良い報せをお待ちしておりますわ」
去り際の一言がどこか高圧的に響いて聞こえたのは、史郎の偏見だろうか。ド
アの向こうへと消えてゆく婦人の後ろ姿を見送りながら、彼はどうにもあの人と
はそりが合わないようだと感じていた。
「さっすが金持ち。契約金も大盤振る舞いだ」
契約書に目を通していた健一が、感嘆の声を上げながら書類を指で弾いた。
史郎はやや苦笑すると、婦人が置いていった娘の写真と、特徴を記したメモ用
紙を覗き見た。なるほど婦人が自慢するだけあって、どこかしら優等生の雰囲
気を纏った少女に感じられた。
「藤里……和美(ふじさと かずみ)、か」
少女の名を口にしてみて、史郎は胸を突かれたように顔をこわばらせた。奇し
くもそれは、史郎が高校時代に想いを寄せていた少女と全く同じであった。

 そして今、史郎は海辺の田舎町に来ていた。普段は静かな漁村だが、海水
浴シーズンだけは旅行者で溢れる小さな町だった。
 駅前を抜ければ、数分で浜辺へと辿り着く。起伏を繰り返す岩場の中央に、
ぽっかりと白い砂浜が広がっていた。防風林を兼ねた松林の向こうに見える
海岸線には色とりどりのビーチパラソルが華開き、海を楽しむ水着姿がまば
らに点在していた。
 捜索中の藤里和美から自宅宛に葉書が届いたのは、今朝早くのことであっ
た。裏面には一言、『私は元気です』の文字が白い空間の真ん中に小さく書か
れていた。その葉書の消印がこの町だったのである。それだけを手がかりに、
史郎は四時間かけてこの地へとやって来ていた。だが、確証は何もない。消
印の日付は昨日だったが、少女がまだこの町に留まっている可能性は低いと
も言えよう。何よりそれは、葉書を投函した場所がここであるという証拠でしか
なかった。それでも史郎が頼る判断材料はそれしかないのが現状だった。
 熱気に満ちた路上をとぼとぼと歩く。二時間ほど聞き込みを続けたが、少女
を見たという証言は皆無であった。
「もうこの町にはいないのか?」
そんな疑念が湧いてくる。焼き尽くすかのごとく照りつける日差しは思考や判
断力を奪うようで、次なる行動の指針がなかなか見えてこなかった。重い足取
りで狭い県道を進む史郎の傍らを、時折県外ナンバーの車が無遠慮に砂煙
を上げながら通り過ぎていった。
「そもそも、何だってこんな田舎町に来たんだろう、この子は?」
彼女の母親に尋ねても、少女とこの町とを繋ぐ接点はなかった。何故この田
舎町に降り立ったのか、それが家出した理由と何か関係があるのか、疑問は
尽きない。
 健一が集めた情報では、藤里という少女はやはり模範的な生徒という評価
であった。真面目、成績優秀、素直、聞こえてくるのはそんな評判ばかりであ
る。だがそのような子だからこそ、突発的な行動に出てしまうものなのかもし
れない。普段抑圧されている分だけ、歯止めの効かないままに。
「衝動的なものなのか、それとも何か訳あってのことなのか……」
少女の写真を見つめながら、いつしか史郎はなんとしても彼女を捜しだし、そ
の理由を知りたいと思うようになっていた。そして無意識のうちに、少女に対し
高校時代の同級生の姿を重ね合わせてしまっていることにも気付いた。手元
の写真を通して、在りし日の女生徒を思い浮かべている、その事実を自覚し
て史郎は一人赤面した。彼の知る“藤里和美”もまた、利発な少女であった。
優しげな笑みを浮かべた口許がやけに印象的で、彼女と話す時はさりげなく
その唇を盗み見ていることが多かったような記憶がある。
「小川君って、ホントに推理小説が好きね」
授業中教科書で偽装しながら小説を読み耽っていることが多かった史郎は、
斜め後ろの席からそれを目ざとく見つけた彼女に、よくそう指摘されたもので
あった。
「将来は探偵かミステリー作家にでもなるつもりなの?」
そう尋ねられて、「まっさかぁ。趣味だよ、趣味」と答えた自分が今こうして探偵
をしているのだから、人生とは奇妙なものであると改めて感じる。

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