海へと足取りを軽くする海水浴客達の流れとは逆の方向へ、史郎はオープ
ンシャツの袖を揺らしながら進んだ。婦人に教えられた旅館は、駅前の商店
街にほど近い小さな宿だった。玄関で従業員の壮年の男に事情を説明する
と、既に少女は出かけているとのことであった。藤里の写真を見せると、
「ああ、確かにこの人ですよ」
と男は鷹揚に頷いた。
「どこへ行くか言ってませんでしたか?」
「さあ、特には」
「分かりました。どうもありがとうございます」
丁寧に礼を述べて、史郎は玄関を後にした。ともかく、少女がこの町にいるこ
とは確認できた。あとは少女がこの旅館へと戻ってくるのを待つだけである。
とりあえず健一に中間報告を入れると、史郎は近場をぐるりと回ってみるこ
とにした。どこかで彼女と遭遇するかもしれない。思ったより早く少女が見つか
ったことで、気分が緩み自然と歩調もゆっくりとしたものになっていた。
民家の並ぶ路地の端で、掲示板に掲げられた盆踊りの張り紙がふと目に止
まった。軽く流し見すると、町内の公民館でやるようだ。もうそんな時期だった
かと、史郎は夏の風物詩的なその行事が、自分にとって随分と遠い存在にな
っていることに改めて気付いた。子供の頃は地域の小さな盆踊り大会ですらと
ても心躍ったものだったが、今では足を向けることもなくなっていた。日常を漫
然と過ごしているうちに、そんなささやかな祭りを見落としても別段何とも感じ
なくなってしまっていた我が身が、史郎は少し悲しくなった。
そう言えば……またも高校時代を回顧してみる。地元の夏祭りに藤里和美
を誘いたくて、友達をダシに何人かで祭り見物を決め込んだことがあったっけ。
そうそう都合良く二人きりになどなれるはずもなく、彼女の浴衣姿をちらちらと
眺めることしかできなかった記憶が脳裡をよぎった。今思えば杜撰な計画だっ
たと苦笑するしかない。祭りに誘ってさえしまえば、あとはどうとでもなると盲信
していた自分の単純さが恥ずかしかった。
いつからだろう。そういった心の躍動感はいつしか自分の中から消えていっ
てしまった。仕事に明け暮れ、独り身の寂しさにも慣れ、知らず知らずに大人
という規定に自ら染まり、気付かぬうちに感性を摩耗させている自分がいる。
盆踊りの張り紙を意識に焼き付けながら、史郎はそんな想いにとらわれた。
時間の流れは逆行しない。たとえ望んでも、過去に戻ることはできない。それ
を知りつつも、史郎は“あの頃”の感覚を取り戻してみたいと欲した。無知ゆえ
の純粋、可能性は無限にあると信じられた果てなき希望、自分の周りが世界
の全てだった頃の感性を、今の自分にも持つことができたなら……違うな、史
郎は冷笑に唇を歪めた。求めているのはそんなものじゃない。藤里和美と一
緒にいたあの時間が懐かしいだけなんだ。そう気付いて、史郎は自分の感傷
的な気分を一蹴しようとした。
一抹の寂しさを抱えながら、史郎はのんびりと海岸線の細い道を歩いた。木
々が作り出す濃い影がアスファルトをまだらに覆っていた。それを、水たまりを
避けるみたいに軽いステップで踏んでゆく。仕事の最中という意識が薄いせい
か、ついつい思考が自己の内面へと埋没してしまっているようだと自覚する。
しかし、学生時代を振り返って懐かしむほどに自分は老けていないはずだ。史
郎はわざとそう自嘲した。まだまだオジさんの域に足を踏み入れてなんかいな
いぞ、と自分を鼓舞してみて、思わず滑稽な笑みがこぼれた。
当初の目的に回帰して、史郎は少女の姿を捜した。今日も浜辺は海水浴客
で溢れていた。その中には高校生くらいの少女もかなりの割合で目についた
が、遠くからでは誰が誰やら見分けがつかなかった。ましてや髪型を変え私服
や水着になってしまえば、あの年頃の女の子はいくらだって変身してしまうだろ
う。
「まいったな。みんな同じ顔に見えるぞ」
手元の写真と見比べながら、史郎は困ってしまった。洋画に出てくる外国人の
顔が区別できないのと同じくらいに、少女達の顔が判別できないという事実に、
もしかするとそれがオジさんになった証拠なのかもしれないと思えて内心動揺
してしまう。いやいやいや、それは違う、違うはずだと史郎は慌ててその推論を
否定した。
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