恐る恐る燐香がその正体を口にした。
「それも腹をすかせた群れのようだ。すっかり囲まれている」
睨みをきかせながら、野犬から視線をはずすことなくアザスが補足する。
「え?」
とっさに燐香があたりを見回した。彼の指摘通り、背丈ほども伸びた周りの草
藪から幾つもの不気味な唸り声が響いてきた。
アザスはそろそろと腰に下げた袋に指を伸ばした。中には攪乱用の炸裂弾
が入っている。攻撃態勢を維持したまま、彼は瞬時にそれを取り出すと投げ
つけた。
「走れ!」
その叫び声と爆竹に似た炸裂音が鳴り響いたのは同時だった。連続してぱん
ぱんと耳をつんざく騒音が飛び火するようにあたり一面を満たす。その隙に二
人は逃走を開始していた。
だが野犬の数は想像以上だった。一度は距離を離したものの、足の速さの
違いですぐにまた囲まれてしまった。
「くっ!」
護身用のナイフを手にしつつ、アザスは既に劣勢を自覚していた。これだけの
数を相手にするには武器が少なすぎた。携行食を囮にして逃げるにも缶詰を
開封している暇はなさそうだった。加えてこちらには燐香もいる。彼女を守りな
がらこの状況を切り抜ける自信はまるでなかった。
……そうでもないか。だがすぐにある事実に気がつく。やつらが欲しているの
は食料だ。だとすれば、機械である少女が標的となる可能性はない。ならば…
…
「燐香、逃げろ!」
アザスが燐香の背中を押した。
「え?何?」
「君が襲われることはない。だから、このまま逃げろ!」
勢いで数歩踏み出してから、少女は逆に足を止めた。
「そんなこと出来る訳ないよ。一緒に逃げるの!」
「いいから言うことをきけ!」
苛つきながら、アザスはわざと厳しい口調で言った。けれどもそれは逆効果に
すぎなかった。燐香は悲しそうな眼を向けながら叫んだ。
「どうしてそう自分勝手なのよ。あたしがそんな命令に素直に従うと思ってるの
?」
「馬鹿っ、口論している暇は……」
ふいに言葉が切れた。飛び出してきた二匹の野犬がアザスの左腕に噛みつい
てきたのだ。その一匹の喉元に、右手のナイフを突き刺す。
「ギャウンッッ!」
悲鳴を上げながら、それでも野犬はアザスの腕から離れなかった。それを勝機
と見たのか、残りの群れも一斉に彼目指して飛びついた。
「だめぇぇぇっっっ」
だが、庇うようにアザスと野犬の間に燐香が割って入った。彼に向かうはずだ
った無数の鋭い犬歯が、瞬く間に少女の白い肌や服を無惨に切り裂いてゆく。
「がぁぁっっ!」
野生の咆吼を絞り出して、アザスはその牙を少女から引き離そうとした。だが
一度穿たれたそれらは、どれだけ力を込めようとびくともしなかった。その間に
も野犬は次々と二人に食らいついてきた。この時ほど背中の飛べない翼が恨
めしいことはなかった。鳥でも天使でもなく、ただ人間たちの気紛れによって植
え付けられたその翼は、どこまでも彼を地上に縛り付ける鎖でしかない。その
ことを呪いながら、アザスは今確実に死を実感していた。
もつれ合うように、二人と野犬の一団は昼を過ぎても尚残っていた水溜まり
の泥の中へ転がり込んだ。アザスの背からむしり取られた黒い羽が、泥水の
中に無数に散った。
「お願い……離れて……」
微かな、祈りにも似た少女の囁きが耳に届いた。次の瞬間、予想外の力によ
ってふいにアザスの身体が群れの中から放り出された。
「……っ!?」
何が起きたのか分からなかった。突き飛ばされて数度回転し、彼が状況を把
握する余裕もないまま地から顔を上げた時には、何故か少女を囲んでいた野
犬たちの間から苦悶の悲鳴が湧き起こっていた。そして、突然力尽きたように
彼等は次々と地面に倒れていった。
「……一体……何が……」
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