世界はこんなにも美しい……でも、その美しさは今の自分にとってどこまでも
無縁に思えた。陽が高くなればその光は彼を苛む剣と化す。ゆく先を遮る自然
の数々は、目的地を隠蔽しその道の険しさをどこまでも伝えてくる。それでも、
彼は歩みを再開した。まだその理由を見付けられないままに。
七
幻のような逃げ水をただひたすらに追いかける。それはアザスを嘲笑うかの
ように、前方に現れては追いつく前に消えていった。彼にはそれが燐香の影そ
のもののように見えた。どこまでも届かない、手を伸ばしても触れることのでき
ない他人という名の影。もしかしたら今自分が背負っている少女も、その幻の
かけらなのかもしれない、そんな疑念が際限なく湧いてくる。それが熱気の生
み出す妄想であることは、背中から伝わってくる少女の重みから明らかなはず
だった。それでも、彼をなぶる暑さは思考を鈍らせ、ありもしない狂気をよぎら
せた。そう、彼の背にいるのはもはや燐香という少女の残滓にすぎないのでは
ないかと。もはやアザスの行動は何の意味も持たない、ただの自己満足でしか
ないのではないか、と。
やめてしまえ。今すぐそんな荷は捨てて楽になってしまうんだ。今更そんな亡
骸を運んで何の利があるというのか。ここに置いていけば、またいつもの自分
の旅に戻れるんだ。さっさとそうしろよ。第一他の亜人種の死に無関心なお前
が、自らのルールを反古にしてまで何故この少女に固執する?矛盾しているじ
ゃないか……じりじりと降り注ぐ陽射しは彼の脳裡にそんな妄言を吹き込み続
けた。額から流れる汗が時折視界を遮り、片腕でそれを拭っては、それでもア
ザスは歩くことをやめなかった。目的?意味?何百回、何千回と浮かんでは消
えた疑問符がやがてだんだんとおかしくなってきて、彼はいつしか口許に虚ろな
笑みを作っていた。そんなもの、はじめからなかったのかもしれない。そもそも
自分が旅に出た理由だって元々明確なものじゃなかった。ただこうしてさすらい
続ければ何かに出会える、何かが変わる、そんな漠然とした期待にすぎなかっ
たはずだ。ならば生死すら定かならぬ少女を連れてゆくことに何の必然性を求
めようというのか。そんなものなくたって構わない。ただ彼女を家まで送り届けた
い、それで充分ではないか。ついにアザスは自問自答に対しそういう心境を見
出していた。
そして更にもう一日。空腹も忘れたまま南へ向かい続けて、連なる山間を抜
けたその先に目指す地はあった。かつてこの地方の中核を担っていた巨大都
市。足を止めた眼前の視界で、その成れの果てが彼方に見える海を背景に不
自然なまでに広く平野そのものを埋め尽くしていた。天目指し無秩序にそびえ
並ぶ高層建築物の群れも、今となっては意味をなさない人工の雑木林でしかな
かった。
これまでとは一種違う雰囲気を放つゴーストタウンに、アザスは僅かな戸惑い
を覚えながらも足を踏み入れた。仰々しいまでに蝉の声が耳につく。見上げる
と異様な数のカラスとおぼしき鳥の一群が空を覆い尽くすようにビルの間を飛
び交っていた。
「ここは……まだ生態系が完全に回復していないのか」
これまで旅してきた道程の中でも、人工物が自然の回復力を妨げたままの景
色を幾つも目にしていた。けれども、この街は人の手による開発という名の破
壊が一際激しかったようだ。歩みを進める通りのあちこちで本来ありえない動
植物の様子が見てとれた。
不快な汗を覚えつつアザスはとりあえず燐香から聞いた彼女の家へと向か
った。都市の南東に位置するその住所へは更に半日を要した。海の見える小
高い丘に造成された住宅地の一角、本当にありふれた民家の一つが少女の
帰るべき家だった。その錆び付き蔦が絡まった玄関の前に立ち、アザスはよ
うやく軽い安堵と脱力感に身を委ねた。途端に両腕が筋肉痛の悲鳴を訴え、
思わず背負っていた少女をずり落としそうになる。それを堪えて、彼はそろそ
ろと燐香を家の前に座らせた。
「燐香……起きろ」
そっと呼びかけてみる。反応はなかった。軽く頬を叩きながらも、もう一度繰り
返す。
「おい、家に着いたぞ……起きろよ」
「………」
返ってくるのは無言だけ。耳を騒がす蝉の合唱が一層強くなった気がした。
「燐香……燐香……おいっ!」
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