肩を揺すりながら強めに頬を叩き続ける。けれども瞳を閉じた少女は物言わぬ
無機物のようにぴくりともしなかった。
「一人で勝手に眠り姫なんて……そんなの、許さないぞ……おい、いい加減目を
覚ませよ……」
自分でも何を口走っているのか分からないまま、それでも何かを言い続けようと
する衝動は止まらなかった。そうしてさえいれば少女は必ずあの笑顔を再び見
せてくれる、そんな幻想に縋るかのように。
「おい……おい!……お……」
分かっていた。知っていた。本当は気付いていた。燐香はもう、ただの人形に戻
ってしまったと。それでも、たとえそれでも……。
「………」
少女に触れていた手が力無く離れ、重力に従うまま垂れた。落胆の大きさがアザ
ス自身意外だった。何故自分はこんなにもショックを受けているのか、それが不
思議でならなかった。他人の死など無縁であるというのに。いや、そもそも機能が
停止しただけで、厳密には死とすら言えないのだ。それなのに、この胸を切り刻
む暗澹とした悲哀感は何なのだろう。まるで他者の感情であるかのようにままな
らぬ、この気持ちは。
 陽が傾き始めていた。うなだれていた頭(こうべ)を上げ、アザスは再度少女を
抱きかかえた。せめて彼女を室内へ運ぼうと思い至ったからだ。
 蔦が幾重にも絡む門扉をくぐり、軋む扉をなんとか開いて薄暗い屋内へと入る。
百年来人の出入りがないと思える濁った空気を泳ぐようにしながら、アザスは埃
の積もった廊下を二階へと昇った。
 少女の自室らしい一室に辿り着き、アザスは燐香を窓際のベットに横たえた。
滑りの悪いカーテンを耳障りな音と共に開く。そこからは周囲の屋根々々を透か
して遠く海が見えた。
「こういう景色と一緒に育ったんだな、きっと」
そんな言葉が口をついて漏れた。彼の知らない少女の半生、その面影がこの部
屋のあちこちに残っているのだろう。彼女個人を示すものは一瞥する限り僅かし
かなかったが、アザスはそんな想像に少しだけ頬を緩ませた。
「……ん?」
ふと入り口そばの机の上に目が止まった。重厚そうな金属の小箱と、手紙らしき
紙片がそこにあった。手を伸ばしてみると、変色を免れた白い封筒に『燐香へ』
と書かれた丁寧な文字が読めた。
「燐香宛て……両親の残した手紙か」
俄に興味を惹かれ、アザスは手紙を手に取った。悪いとは思いつつも、包んであ
った半透明の耐熱・変色防止フィルムを開封する。封筒の中には簡素な便箋が
入っていた。
「………」
流すように手紙に目を通す。詳細な記載はないものの、少女を残して急遽この家
を出なければならなかったこと、もしかして少女がこの手紙を読む頃には自分た
ちはもう死んでいるかもしれないこと、そんなことが綴られてあった。確かに燐香
の両親のものらしいと思った矢先、アザスの黙読がふと止まった。
『あなたに謝らなければならないことがあります……』
そんな謝罪の言葉で始まった一文。続きを追ってゆくうちに、アザスは読み進め
ることに対し罪悪感を覚えた。
「……そういうことか」
驚きはなかった。悲しみも、憤りもなかった。あるのは冷徹なる事実、それだけだ
った。ただ、もしこれを燐香本人が知ることとなったら、その時見るであろう少女
の沈痛な顔は正視できないかもしれないと思った。
「所詮は人間の……え?」
もう手紙を閉じようとした最後の最後、文末に追伸という形で書かれた短い言葉
に触れた瞬間、アザスの心は一気にざわめき立った。手紙の隣に置かれた小箱、
そこには可能性という名の希望が詰まっていることを知ったからだ。
「ここに予備の燃料電池が……」
そう書いてあった。少女を想う最後の優しさなのか、はたまた単なる気紛れなの
かは分からないまでも、少なくともアザスには縋るに足る贈り物だった。はやる気
持ちを押さえ、小箱を開く。緩衝材を敷き詰めた箱の中には、アンプルに近い形
状をした半透明の燃料電池が1ダースほど、整然として並んでいた。
 これを交換すれば、燐香は再び目を覚ます。それは甘美すぎる誘惑にも似た
興奮をアザスにもたらした。だが本当に間に合うのか、そんな疑念もまたそこに
はあった。そしてたとえ目覚めたとしても、これまでの記憶の蓄積の一切を失っ
ていることは充分にありえた。手にした希望には、少なからず絶望が含まれてい
るのも確かだった。

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