「………」
その少女の様子にアザスは気付かれぬよう少しだけ顔を伏せた。
「不思議……記憶にあるはずなのに、なんだか知らない場所みたい」
そう呟いてから、燐香は机の上の手紙に気がついた。
「……あたし宛て?」
そのまま何の疑問も抱かず手紙を開く少女の仕草に、アザスは背を向け素知
らぬ振りをするしかなかった。願うならこの場から退散したかったが、けれども
それは先に手紙を読んでしまった今となっては卑怯だと思えた。だから、敢え
てとどまった。
背後から聞こえる紙ずれの音。続いて少し長い沈黙と、
「……あ」
小さな悲鳴が耳に届く。それは短くも悲しみの色が混じった声に感じられた。
「……そうだったん、だ……」
手紙を読み終えた燐香はそれだけ言った。部屋には闇が降り始めていて、そ
れが余計重苦しい気分を助長していた。明かりはつかないものかと、アザスは
意図的に意識を他のことへ移そうとした。しかし少女がそこにいる以上、それ
は無理だった。
「アザスも読んだんでしょ、この手紙」
「ああ」
肯定して、アザスは振り向いた。薄闇に染まった燐香の表情はどこか虚ろに見
えた。
「あたし……人間じゃなかったんだね……」
艶を失った声が震えながら響き、そっと、触れるか触れないかの距離で少女の
頭がアザスの胸にもたれた。
手紙に書かれた懺悔。それは、燐香が元々子供のいなかったこの家の人た
ちによってオーダーメイドされた、偽りの記憶を植え付けられたアンドロイドでし
かないということ。試作型であった為使っている燃料電池こそ特殊なものだった
が、その素姓は正真正銘純粋なアンドロイドであり、かつて人間だったという彼
女のアイデンティティはそれ自体虚構でしかないという現実がそこにはあった。
自分も少女も結局は人間のエゴが生み出した戯れの玩具にすぎないのかもし
れない、そんな考えがアザスの脳裡をよぎった。けれども、たとえそうであったと
しても今自分たちはこうして生きている。自分の足で立ち、自分の考えで行動し、
自分としてここに存在している。ならばこれからも自分として生きてゆけばよい、
そうも思うのだが、それが少女にとって慰めの言葉とはなりえないだろうことも
確かだった。
「嫌だね、ホント……悲しいのに涙が出ないなんて……」
俯いて表情の見えない燐香から漏れた呟きに、アザスは腕を回して軽くその背
中を抱きしめた。あくまで他人という距離を保ったまま、心の稜線を踏み越えな
い優しさを込めて。
「うっ……ぅぅっ……うぅ〜……」
あとは慟哭だけが部屋に溢れた。けして流れることのない涙の代わりに、いつ
までも……。
翌朝。朝日に染まる浜辺に一人アザスは立ってみた。入り組んだ海岸は水平
線を狭く切り取り、海の雄大さをそこに見出すことは出来なかったが、普段見慣
れていないだけにその景色は新鮮だった。同時に、意外と潮の匂いがしない海
辺の空気に、現実の風景なんてこんなものだとやや落胆する。人間の残した書
物がいかに美辞麗句を並べ立てて自然のありようを粉飾してみせても、この身
体で体感する今まさにここにある光景のもたらす現実感に勝るものではなかっ
た。それでも人々は多くの言葉を積み重ねてこの地球(ほし)の全てを書き記そ
うとし続けた。まるでそれが自分たちの存在した証拠であるかのように。
「人間たちは何を残そうとしたんだろうな、この世界に……」
ふとそんなことを口にしてみる。それを知るには、まだ彼の旅は長そうだった。
両手を空に向け、大きく伸びをして一つ深呼吸。ついでにすっかりボロボロに
なり汚れきったシャツをまくって、背中の飛べない翼を風に晒してみる。黒い羽
はかなり傷付き抜け落ちていたが、それは時間と共に癒えるだろう。時には憎
々しくもあったおのが翼は、だがしかし彼自身の一部であり、自分という存在を
必然たらしめる要素の一つであるのも事実だった。ならば、どんなに嫌悪しよう
とも死ぬまで付き合ってゆくしかないのだろう。少なくとも今はそう思えた。
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