「ん?」
何を見付けたのか、と彼が少女の行く先を目で追っていくと、草むらが生い茂る
路傍の隅に隠れるように放置されていた錆色の二つの車輪を、彼女は近寄って
指で示した。
「ほら!」
「自転車か……」
人間たちが残した様々な記録から、アザスも知識だけは持ち合わせている乗り
物だった。
「タイヤが二つしかないこんな不安定な代物を、どうして人間たちは好んで愛用
したのやら」
そんなアザスの疑問をよそに、燐香はよいしょと両手をかけてその自転車を持
ち上げ、道路まで抱え出してきた。見たところ欠けた部品もなく、ほぼ完全な形
で残っているようだった。
「これ使えば楽なんじゃない?」
「残念ながら乗ったことがない」
少女の提案に、アザスは乗り気なさそうに答えた。けれども燐香はサドルの汚れ
を払いながら元気に言った。
「だったら練習すればいいじゃない」
「何も無理してこんな非効率的なものを……」
そう否定しかけて彼は言葉に詰まった。少女のにこやかな顔を見ていると、何故
か単純にその提案を放棄する気にはなれなかった。
「やってみるか」
我ながら無駄なことをしていると思いながら、アザスは燐香から自転車を受け取
った。タイヤをチェックすると、奇跡的に腐食も弱く使用に問題はなさそうであっ
た。
 若干ぐらつきのあるハンドルを握ると、意を決したようにアザスは自転車にまた
がった。かろうじて足が地に届く。あとはこのペダルを漕いでチェーンを回せば動
くはずだ、と以前読んだ書物を思い返して確認してみる。
「っ……」
軽く息を止めて、アザスは記念すべき第一歩を漕ぎだした。くるり、とペダルが輪
を描く。それに合わせてタイヤが地を蹴り、自転車は軽快に風を切ってその先へ
……
「わ、わっ!」
進まなかった。僅かな前進もないままに、自転車はバランスを崩して横倒しになっ
た。
「〜っっ。なんでこんなのに乗れるんだ、人間は?」
それが正直な感想だった。不安定極まりなく、とうてい乗り物として有用とは思え
なかった。
「だから、きっといっぱい練習したんだよ」
嘲笑うでもなく、優しいまなざしで燐香が言った。
「わざわざそんなことをしなくても、もっと便利なものを沢山作り出しているのに、
か?」
「うん。それはきっと……」
少女は視線を空へ向けてちょっとだけ考えると、
「その先に楽しいことがあったからじゃないかな」
と彼にはまたも理解しがたい答えを導きだした。
「楽しいこと?」
「努力した後の達成感とか、満足感とか、たぶんそういうの」
「何がいいのやら」
口元を少し歪めて、アザスは呆れたような声を出した。
「それにね、きっと気持ちいいと思うんだ。自分の力で風を切って進むのって」
まるで自分が体験したように嬉しそうに微笑む燐香の表情に、彼は理由のない
動揺を覚えた。この少女の感性は、きっと自分の思考では絶対に割り切れない
だろうという途絶感。そこにいるのは、確かに自分以外の絶対的な他人である
という再認識。当たり前のことなのに、それを改めて知った気がした。だからと
いってそれが彼女を拒絶する理由にはならない。むしろ、そのことに興味を見
出し始めている自分がいた。その動機もまた、自分自身不可解であった。
「そんなものかな」
だから、その動機を解明する為にあえてもう少しだけ付き合ってみようと思う。
たとえ時間の浪費であったとしても。
「じゃ、もう少しやってみますか」

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