再度ハンドルに手をかけると、アザスは地面から足を離した。そうして何度も、
目的を忘れるくらい転び続けてその日は暮れていった。それでも急がない旅の
中でこういう一日があってもいいのではないかと、結局は自転車を放棄する結
果になりながらも彼はいつしか思えるようになっていた。

    四

 街が見えてきた。舗装路が次第に途切れ草藪の中の獣道をそのまま進んで
ゆくと、唐突に視界が開けて建築物が見下ろせる場所に出た。そこは比較的
平坦な丘の上に立ち並ぶ、廃墟の一群れだった。さして階層のない鉄筋のビ
ルが不規則に続き、中央には半分崩れた煙突らしきものまであった。
「ちょっとした工場と住居施設といったところか」
窺うように街の外周を歩きながら、アザスはそう判断した。後ろに従う燐香も怖
い物見たさのような表情をしながら、おっかなびっくりついてきていた。
「何を作っていたんだろ?」
「さあな」
彼女の疑問にそう応じながらも、できれば食料であってほしいとアザスは思っ
た。今朝からまだ何も食べていないのだ。
 傾いた食料品店の看板が目に入り、アザスはさっそく足を止めた。入り口の
シャッターは降りているが、強引に開けることはできそうだった。
「食べ物探すの?」
彼の挙動に目的を察して、燐香が尋ねた。
「ああ」
「じゃあ、その間ちょっと他のところ見てていい?」
「構わないさ」
「ホント?じゃ、少しだけね」
言うが早いか、燐香は瞬く間に彼の前から姿を消した。その勢いに微笑して、
アザスは自分の作業に戻っていった。
 なかなかに手強いシャッターをこじ開けて店内に侵入すると、陳列棚に商品
は殆ど残っていなかった。それでも彼は更に奥へと進み、倉庫部屋から幾つ
かの缶詰を見付け出した。ラベルは色褪せて読めなかったが、缶そのものに
破損はなさそうだった。
「これで今日明日くらいはしのげそうだな」
収穫に満足しながら、アザスはその缶詰をベルトにくくりつけていた袋に詰め
た。
「……ん?」
ふと隅に積まれた段ボール箱に視線が止まる。試しにそれも開封してみた。
中には、雑誌を中心とした本の束があった。俄に興味を惹かれて漁りだす。
日常的な情報誌が殆どだったが、文庫サイズの小説や論文もあり、彼は気
になったタイトルの本を三冊ほど抜き出した。本は人間の文化を知ると同時
に、格好の暇潰しの材料でもあった。
 店を出ようとした時、レジカウンターの上に紙幣や硬貨が散らばっているの
に気がついてアザスは何気なく手を伸ばした。今では何の意味も価値もない、
人間の作り出した生活の為の概念。自ら産み出したシステムであるにもかか
わらず、いつしかそれが人間そのものを支配し、絶対的な呪縛として君臨し
続けた掌の上の神様。こんな紙切れや金属片を巡って、まるで狂気に憑か
れたように人々は争い、時には殺し合ったという。それが彼には不思議でな
らなかった。何故そこまで執着し、貪欲に求めたのだろうか。少なくとも今こ
うしてこの惑星上で生きている生物にとっては、生存する手段として何等必
然を持たない代物だというのに。
「まるで一種の信仰だな。信じていないものには何の役にも立たない……」
薄汚れた紙幣を陽射しにかざして、アザスはそう呟いた。人間の殆どが盲信
し、崇拝していた偽りの絶対神、彼にはそう思えた。
「よほど不可解な生き物だったらしい。人間というやつは……」
そこまで口にして、アザスは一瞬息を止めた。どこか遠くから悲鳴のような叫
びが響いてきたと感じ取ったからだ。
「……燐香?」
直感的にそう思った。だが本当に声が聞こえた訳ではなかった。漠然と、ただ
何となくそう感じたにすぎない。それでも彼は反射的に走っていた。

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